うれしの荘片恋ものがたり ひとつ、桜の下
著者:岩久勝昭

春。高校進学を期に一人暮らしがしたいと言った僕・直志は、従姉妹の姉さんが寮長を務めるうれしの荘に入ることになった。そして、その迎えの途中、桜の下で倒れている彼女・瀬名に出会った。彼女の顔を見た瞬間、恋に落ちた…。
という説明文を書くと、なんか恋愛小説っぽいな(笑) というか、私自身がそのつもりで買ったりする(笑)
無論、そういう要素が無いわけじゃない。でもどちらかと言うと、日常の謎系のミステリと言って良いと思う。うれしの荘で起こるちょっとした事件。それが何故起こったのか? それは何なのか? みたいなことを推理する。そして、最終的に、瀬名の出生の秘密へ…と。個人的に予想していなかっただけに、結構、嬉しい誤算だったりして。
この手の作品がそうであるように、序盤はちょっと地味。ついでに言うと、序盤の謎については、開かされた後に、ちょっと無理がないか? とか感じた部分もある。ただ、終盤はなかなか盛りあがったし、着地点も素直な感じで安心できるし。
まぁ、もうちょっとミステリとしての部分が強ければ…とは思うけど、なかなか楽しめた。

しかし、この作品、単発…だよね? それにしてはタイトルが「ひとつ、桜の下」なんてついていて、続きそうだけど…続けるのは辛そうだし…。
(06年8月10日)

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彼女は帰星子女
著者:上野遊
地球と宇宙人が条約を結んだ、という衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。平凡な高校生・望にとって、それはあくまでも傍観するもの…のはずだった。が、直後にやってきた少女に目を奪われる。その少女・絹は、数日前、望が自転車でぶつかりそうになった少女であり、地球人と宇宙人のハーフだったというのだ。計らずも絹と望は、一つ屋根の下で暮らすことに…。
テンポの良さだとか、物語の展開のさせ方、文章の読みやすさ…全てに関して水準以上だと思う。新人賞に応募するのに、お手本にして良いんじゃないか、と思うくらいに。さらっと読めたし、そういう意味じゃ、楽しめた、っていうことは間違いない。
…ただ…なんていうか…。読んでいる最中にずっと「どっかで読んだことがあるような…」という思いがしてならなかった。平凡な少年が、ある日、特殊な女の子と一緒に生活することになってしまった。何かと反目しながらも、少女の心のうちを知って…って話、どっかで読んだこと無いですか? こういう言い方して良いのかわからないんだけど、オリジナリティがあまり無いような。
この作品独特、というとヒロインが宇宙人と地球人のハーフ、っていうことなんだけど、あまりその設定が生きていない。別に外国からのVIPとかでも全く問題が無いような…。もう少し、その辺りに独自性があっても良かったんじゃないだろうか? と思う。
大外れ、ということはないだろうけど、この作品ならでは、というのがどうも薄い気がしてならない。
(06年4月29日)

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いまどき中学生白書
著者:魚住絹代
以前、『脳内汚染』(岡田尊司著)を読んだときに「寝屋川調査って言うのは、どうなのか?」と感じていたのだが、その調査を分析した書が本書である、ということで購入してみた。が、私が一番知りたかった調査票及び、分析も何もしていないデータは書かれていなかった。
さて、内容だが、社会調査法をまがりなりにも学んだ身としては、全く信頼できない調査、というのが第一印象である。まずは、調査の問題点から指摘して行こう。
まず、この書は、05年7月に著者が大阪府寝屋川市、長崎県、東京都の中学生とその保護者、計4700名余りに対して行ったアンケート調査に基づくものである(回答数は、3500名ほど)。
さて、この調査でまず重要なのは、設問によるバイアスである。この書には、質問票が載っていないので断言できないのだが、この書を読む限りゲーム、PC、携帯電話への接触時間と生活態度(それもネガティブなものばかり)ばかりを質問している。こうなると、回答者が質問の意図を察して、回答が偏る可能性が高い。特に、「子どもの様子」を答える保護者の場合、「メディアの悪影響」を危惧していれば、必要以上に厳しい評価になるだろう。また、こうした調査の場合、質問の順番などによっても、大きく数値が変わる可能性があり、そちらも気になる。
また、サンプルの偏りも気になるところ。回答数は3500名と大規模なのだが、調査した土地に注目して欲しい。これらの土地では04年〜05年に、「メディアの影響で起こった」とマスコミに喧伝される少年事件の起きた場所である(佐世保の小六女児殺害事件、寝屋川の教職員殺傷事件、板橋の父母殺害事件)。(こちらも特に保護者がそうだが)平均的な日本人と比較して、これらの土地ではメディアに対して消極的な意見を持つ可能性が高い、と考えられるのである。
と、この2つだけを見てもかなりバイアスが掛かっていることがわかるだろう。
そして、分析結果である本書の内容にも色々と疑問が残る。まず、子ども達を「ゲーム族」「メール族」「ネット族」と3種類に分類しているのだが、それぞれが全体のどのくらいいるのかわからないのである。「ゲーム」は具体的な数字無しのグラフだけ、メールは「中3で一日50通以上が28%」とだけ、ネットに至っては一切かかれていない。その中で、「多くやる子どもが、やらない子どもと比べて、数値がこれだけ違った」という話を次々と展開していくのだが、一見、数が多くても誤差などを考えれば有意差なし、ということが十分に考えられるのだ(ちなみに、私が調べたところによると、ゲーム4時間以上は4%、まったくしない35%、1時間以内42%と大きな人数の差がある)。また、ITメディア以外との関わりを一切記述していない、というところも気になるところ。ITメディアしか聞かないで、メディアの悪影響のように語ることは不可能である。他の理由による可能性も十分に考えられるからだ。
さらに、「事実に基づいて再構築した」と述べる出所の不明のエピソードを挿入することで、不安感を煽るというやり方も感心できない。そのエピソードがどの程度の割合で起こるのかわからないし、また、そのエピソードそのものが、ITメディアの影響のみによって引き起こされたかどうかもわからないからだ。ハッキリ言えば、著者の言いたいところへと恐怖感で誘導しようとしているだけ、としか私には思えなかった。
著者はまとめで「実際の体験を重視すべき」というのであるが、こちらが本当に良いのかどうか検証されていない。「実体験」が多かった過去のほうが凶悪事件が多発していたこととどう整合性をつけるのだろう? 実体験が多いほど良い傾向がある、というのを調べているのであれば、ちゃんとそれを出すべきだし(そちらの方が説得力も出るだろう)、調べていないのに「実体験が重要だ」などと結論付けるのは著者の思いこみに過ぎないかも知れないではないか。どちらにしても、この書に書かれた内容で、「実体験が重要だ」と結論付けるのはいかがなものか。
と、散々、酷評したわけであるが、一つだけ評価しておこう。それは、メディア依存からの脱却について「ITを排除するのではなく、周囲の接し方を考えるべき」という部分である。ゲーム脳や脳内汚染を始めとする書では「ゲームやITを排除すれば即解決」という短絡的思考が多いのだが、この書ではそうなっていない。この点については評価できる。ただ、全体を通してみれば、本当に一部だけでしかないのだが。
と言うことで、私はこの調査の信憑性そのものに疑問を感じるし、分析に対しても疑問を感じざるを得なかった。『社会調査のウソ』(谷岡一郎著)などと併せて読んでみると、面白いと思う。
(06年2月22日)

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Jポップの心象風景
著者:烏賀陽弘道
日本国内で圧倒的なシェアを占め、一方では、日本以外では全くと言って良いほど売れない「Jポップ」。その背景にあるの日本人の集合的無意識を考察する書。
読んで思うのは「なるほど、そういう解釈もできるか」ということ。日本という国の文科的、宗教的な背景であるとかから、Jポップ、アーティスト達を解釈してみよう、という試みは面白いし、一定の説得力もある。
が、やはりそこはそこで、かなり強引な解釈としか思えない部分もあるし、そのアーティストに関する曲・行動などから、趣旨にあった部分を「良いとこどり」して、説得材料にしてしまっているのでは? と思えてしまう部分も多々ある。そもそも8組のアーティスト、それも時代に関してもザ・ブルーハーツから椎名林檎まで、かなり幅広く、時代背景の変化などを考えれば、それらを一緒にする、というのもかなり無茶な話だろう。
そういうわけで、これをそのままJポップを産んだ背景などというのはどうかと思うが、話の叩き台としては面白いし、話のタネとして気楽に読むには良い書なのではないだろうか?
(05年4月12日)

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Jポップとは何か
著者:烏賀陽弘道
90年代の日本の音楽産業は、大きな飛躍を遂げた。それは、80年代の末に生まれた「Jポップ」という言葉の歴史とも言える。80年代末〜現代における「Jポップ」というものを様々に分析した書。
以前読んだ同著者の『Jポップの心象風景』は、文化的な分析…と言いつつ、私にはただのこじつけとしか映らなかったんだけれども、こちらは、産業・経済的なところから「Jポップ」について分析したもので、面白かった。
80年代末というのは、音楽業界にとって大きな変化の時代だった。アナログからデジタルへの技術革新により、レコードがCDとなり、プレイヤーも軽量化・安価となった。それによって、これまで成人が中心であった音楽購買層が一気に広がった。また、好景気によって「物質ではなく、心の豊かさ」を求めるようになったことで、「自己表現」としてバンドブーム、そして、カラオケブームへと繋がる。一方、日本という国を見れば、世界2位の規模を誇る市場。そのため、国内だけを対象としてタイアップ戦略などを取って売りこみ、海外を見ることが無い。また、その形であるが故、音楽の「消費」ペースも短くなっていく…。そして、99年以降のレコード不況…。
Jポップ、近年の日本の音楽業界の流れと共に、日本の音楽産業の構造までがわかりやすく分析されていて、実に面白かった。
近年のレコード不況について書かれている一番最後の章の最後の段落では、こう締められている。「CDの売上が急落しはじめてから、音楽産業は様々な「犯人」を挙げ、それをつぶすことには実に熱心である。(中略)しかし、まったく不思議なことに、その最大の「製品」である「楽曲」について自省の声がほとんど聞こえてこない。(中略)そろそろ「タイアップなどなくとも、人々の心に響くうたをつくろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいころではないだろうか」。近年のCCCD導入やら、輸入版規制の話などを見る限り、私もこの意見に賛同したい。
(05年9月8日)

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新聞がなくなる日
著者:歌川令三
日本の大新聞社は、販売店網からの宅配システムによって安定した収入を得ている。だが、それが電子化への遅れを招いている要因とも言える。電子化への移行は迫っている。現在の構造が変化し、崩壊に近い局面が来るのではないか? というのが本書の簡単な説明文。
本書は、1・2章で現在の「紙」新聞の確立から、インターネットなどの情報革命というものへの概論。3章、4章で日本に先行する形になっている韓国・アメリカの事情の紹介。5章で日本の新聞の現状、6章で日本の新聞社の将来のシミュレーション、7章でまとめ、という構成。
本書で描かれるのは、新聞社の経営という点での視点。「販主広従」の日本の新聞社の経営システム。しかしながら、確実に進行する「新聞離れ」。インターネットなどをはじめとした対抗メディアの出現。こうした状況での日本の新聞社が抱える不安点・問題点を指摘して行く形になる。
ネットと新聞の関係、という意味では、(本書の参考文献にも挙げられているのだが)以前、私が読んだ『ネットは新聞を殺すのか』(青木日照、湯川鶴章著)とも書かれている事は重複する点がある。ただ、『ネットは〜』は基本的にアメリカの事象紹介なのに対して、こちらでは韓国・アメリカの例を持ち出しながらも、しっかりと日本型システムを考察している点が特徴。そうすると、より日本の新聞社の抱える不安点の大きさが浮き上がる。
著者の行ったシミュレーションの是非、また、新聞社の生き残るための方策案が少ない、などというところはあるが、現在の日本の新聞社が抱える問題点を理解するには有益な書であると思う。
(06年4月7日)

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ハルビン・カフェ
著者:打海文三
福井県の西端に位置する新興港湾都市・海市。大陸からの難民の流入によって人口の膨れ上がったこの都市は、様々な勢力が入り乱れ、日本で最も危険な都市と化した。そして、度重なる警官の殉職に、下級警官による報復組織「P」が結成される。中国・朝鮮・ロシア、そして、警察…報復に次ぐ報復のテロルが横行する…。
第5回大藪春彦賞受賞作。
うーん…これは凄い。何が凄いって、どう書けば良いか迷う(ぉぃ)
とにかく、作品の内容が物凄く濃密で、なおかつ重厚。それぞれ一癖も二癖もある多くの登場人物、複雑に絡み合った人間関係、時系列すらも何度も交錯しながら進行していく展開…軽く読んでいると、全く頭の中が混乱してくる。いや、何度、投げ出そうかと思ったことか(ぉぃ)
物語の方も、非常に重厚。マフィアたちと警察内部のテロ組織「P」による報復に次ぐ報復…その構図が、そこに関わる多くの人々の目を通じて語られていく。しかし、次第に、その中で語られていくある一人の男の存在へと物語がクローズアップされていく。序盤で示された人物像から始まって、やがて描かれるその姿が最後には、非常に印象的なものへとなっていく過程は見事。
まぁ、独特の世界観に文章の言い回し…などあるので、みんなにお勧め…はしない。あと、中途半端な気持ちで読むと挫折すると思う。ただ、読み応えについては保証できる作品。
(07年5月16日)

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「死」を子どもに教える
著者:宇都宮直子
「死」というものに対しての意識が薄まってきていると言われる。そんな中、「死」というものについての教育を実践している教師がいる。その取り組みを追った書。
ということで、この書の内容は、「死の教育」を実践している教師の取り組み、授業内容の紹介などを中心としたものとなっている。
「死について考えること」というのは確かに大切なこと。生物として生まれた以上はどうしても避けられないし、それが人格形成などに対しても大きな意味を持つ。ところが、日本では「死」というものは、口にするのもタブー視されがちであり、学校教育などでも扱われないジャンル。そういうタブーを打破しようとする教師たちの取り組み・悩みなどというのは評価したいし、興味深く読めた。勿論、これはこれは子供だけではなくて、全ての年齢層で必要なことでもあると思う。むしろ、高齢化などが言われる時代だからこそ、必要なのでは? とすら思える。
が、その取り組み紹介自体はともかく、著者のスタンスと言うか、前提についてはいくつかの疑問点が残る。例えば、冒頭で「小学生の3人に1人が人は行き返ると答えた」という調査結果を持って「生死感が希薄化している」としている辺りである。この調査については調査票が無いのでわからないのだが、同じく「希薄化」の証拠とされる長崎県教育委員会の調査は、極めて杜撰かつ誘導尋問的な要素の強いものであった(ここでは、「行き返る」の理由では、魂は生きてるとか、新しい命として行き返る、など仏教の輪廻思想的なものだったり、蘇生技術の向上で…など、必ずしも「生物学上の死」が理解できてなかったわけではない。この調査に関しては、こちらに詳しい)。その調査ですら15%程度、この倍と言うことは…と思うわけである。少年の凶悪犯罪が続発している、などと言うのも怪しい。また、著者は生徒に行ったインタビューなどを持って「効果あり」とするのだが、これも本当に効果があったのかを図る材料としては頼りない(「死の教育を受けてどう思ったか?」と聞かれれば、それなりの答えは出るだろう)。現時点で言うのは酷であるが、自殺・殺人などが本当に防げるのかは、10年、20年単位の長いパラダイムで見る必要がある。その辺りがどうも引っかかるのだ。
取り組みの内容の紹介そのものはよくわかったのだが、安易にその効果を賞賛している、という部分に付いては減点材料と考えたい。
(05年11月17日)

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マルドゥック・スクランブル
著者:冲方丁
欲望の渦巻く街・マルドゥック市。不遇な環境に生まれた少女娼婦・バロットは、自らを専属にする凄腕ショーギャンブラーであり、記憶障害を持つ男・シェルによって爆殺されそうになる。そんな彼女を救ったのは、シェルをマークしていた「事件屋」ドクター・イースターと金色のネズミ・ウフコック。彼らの手によって一命を取り留めたバロットは。有用性を示すことで禁じられた科学技術の使用が許される、という「マルドゥック09」を発動させ、シェルを追う。
第24回SF大賞受賞作品。…なんだけれども、あんまり「SF」っていう感じも受けなかった。いや、確かにそれに分類しても構わないと思うんだけれども、そのような世界観で生きる人々を通して思想・思考なんていうような面が強く押し出されていると言うか。
作品の流れは至極シンプル。殺されかけたバロットが、その治療の過程で力を手に入れ、その力を用いて、自らを殺そうとした男を追う、という話。その過程で、力の濫用であるとか、ギャンブルであるとかに直面し、バロットが成長していく。
「生存報告」にも書いたんだけれども、この作品の中で圧倒的な存在感を示しているのが、2巻〜3巻にかけて描かれているカジノでのやりとり。ポーカー、ルーレット、ブラックジャックと言ったゲームの中で行われる、ドクター、ウフコック、ディーラーたちとの駆け引きは圧巻。全体の3分の1くらいの分量なんだけれども、とにかくここが面白い。個人的には、SFじゃなくて、ギャンブル小説だと思ったし(笑)
あくまでもSF作品を読みなれていない私だからかもしれないけど(銀河英雄伝説や蒲生邸事件でも思ったし)、序盤、世界観になれるのにちょっと時間が掛かった感がある。1巻の後半くらいまではそんな感じだった。けど、そこからは一気だったし、面白かった。
(05年8月22日)

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引きこもり狩り
編集:芹沢俊介
著者:芹沢俊介、高岡健、多田元、山田孝明、川北稔、梅林秀行

06年4月に、愛知県にある引きこもり支援施設のアイ・メンタルスクールで寮生が死亡するという事件が発覚した。同時期、やはり愛知県にある支援施設・長田塾も元塾生が、長田塾らに拉致・監禁された、として裁判を起こした。長田百合子、杉浦昌子という実の姉妹の経営する施設の実状・経緯を中心として、「ひきこもり支援」について問うた書。
ということで、本書で書かれているのは、長田、杉浦両氏による「ひきこもり支援」施設に関する事件と、その施設の実態と、両氏の経歴などからの検証…が中心になる。両氏ともマスコミで「熱血カウンセラー」などと持て囃される存在でありながら、その施設の劣悪な実態には愕然とさせられる。が、本書の主題はそこではなく、その事例を通して考える「ひきこもり支援」というものへの考察であろう。
本書は複数著者による共著作であるが、全てに共通しているのは、「ひきこもり」というレッテルの持つ問題、そして、「引き出す」という行為が「良いこと」とされている暗黙の了解への疑念である。
「ひきこもり」という言葉は、それを「悪」とする価値観がある。そして、支援者は「善意」で、彼らを「引き出す」ことを目的とする。「ひきこもり」が「悪」と見做し、それを「否定」「更正」するのを「善」とする、というのが「支援」の多くにあること。しかし、そもそも「ひきこもり」は「悪」なのだろうか? そして、この「支援」は、「ひきこもり」当事者本人の意向は無視して行われる。誰が為の「支援」なのか? という疑問を投げかける。
本書の著者らの主張は、「ひきこもり」という状態の肯定から始まる(というか、そもそも「ひきこもり」と言う単語自体も否定する)。その上で、支援についても「引き出す」という前提を否定する。「良い引出し方」「悪い引出し方」という考えでは、第2、第3の問題が起こる、というわけである(というか、この事件自体が、戸塚ヨットスクール事件依頼の流れにある、と考えている)。
無論、本書で書かれている部分の細かいところでは反論もあるだろう。例えば、本書では否定されているが、経済的な視点で語ることも実際的に必要な面はある。だが、全てをそれのみで語ることは明かに問題であるし、国・自治体レベルさえもが、その視点というのは問題だろう。「ひきこもり支援」というものについての議論に一石を投じる書であることは確かだと思う。

実のところ、私が本書を手に取ったのは『レンタルお姉さん』(荒川龍著)で描かれる活動内容に対して疑念を抱いたことから始まる。そして、本書を読み、その疑念がハッキリした。つまり、本書で書かれていることと、『レンタルお姉さん』で語られていることは、程度の差こそあれ、構造が同じだ、という点である。アイ・メンタルスクールのみの事例、とは言えないだろう。

ちなみに、長田百合子氏は、アイ・メンタルスクール事件の後も教育行政などに関わっており、例えば、埼玉県知事によって作られた教育者育成機関・埼玉師範塾などにも講師として参加している(なお、ここには、あの森昭雄氏まで参加している。埼玉県の教育が非常に危惧される)。
(07年3年19日)

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記憶の果て
著者:浦賀和宏
親父が死んだ。自殺だった。そんな親父の書斎に残された一台のパソコンの中に「裕子」はいた。あれは、ただのプログラムに過ぎないのか? だが、プログラムに意識が宿ったのだとしなら…。
第5回メフィスト賞受賞作。
この作品、その後もシリーズとして続いているが、あくまでも本作のみを読んだ時点での感想。読んでいて思ったのは、青春小説、成長物語的な要素が強いな、というのがまず第一だった。
父の残したパソコンにある「裕子」と名乗るプログラム。彼女は一体、何者なのか? その謎を解くうちに明らかになっていく自分の出生の秘密。崩れて行く自らのアイデンティティ。そして、友人関係、恋愛関係に悩む主人公の姿…と、淡々とした雰囲気で進みながらも、生々しい少年の姿が描かれている。
「プログラムに意識は宿るのか?」「人間の脳の活動、というのも電気信号によるやりとりに過ぎない」。科学的、哲学的な考察みたいなものを交えながらそちらへと迫って行くあたりの流れは面白く、また、色々と考えることもできて面白かった。
読了後に全ての謎が解けたわけではなく、むしろ、投げっぱなしの部分が多い。しかし、そこで終わるからこそ、この後読感、余韻が残るのだろう。
うん、面白かった。
(06年7月21日)

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子どもが危ない!
著者:江原啓之
最近、テレビでよく見て、「胡散臭い奴」と思っていたんだけど…なんだろうね、この本。
とりあえず、先に書いておくと、私は、誰が何を考えていようと、他人に迷惑をかけない限りは構わないと思っている。江原氏の言う「たましい」だの何だのだって、別に信じたい人が信じれば良い。けれども、この書は頂けない。
この書はタイトル通りに「子どもが危ない」と言っているわけだけど、その根拠は、「〜〜と言われています」と言う自分がどこかで聞きかじったという話だけで、具体的な数字はおろか、新聞や雑誌などの記事も一切無い。さらに、引きこもりだとかの話にしても、ただただ江原氏が「このように想像してます」という話ばかりである。江原氏は「自分はたましいが見える」などと豪語しているのだから、実際に、引きこもりに苦しんでいる人の元へ言ってたましいとやらを見れば良いではないか(ま、それはそれで極めて迷惑な話だとは思うのだが)。
「学者や医者が色々と言っているが、解決されていないから自分が言うのだ」と豪語している割には、どっかのワイドショーなどで聞かれる的外れな教育論に持論である「たましい」の味付けをした陳腐な解説を連発し、最後に「真、善、美」を教える、という極めて抽象的で辺り障りの無い結論に収束する。一体、それで何が解決するというのか。
一応言っておけば、近年、少年事件が増加した、凶悪化した、などということを客観的に示すデータは無い。むしろ、データを見る限りは減少傾向である。また、また3章では「現在は数の力が全てになった」などと言い、それは戦後の傾向などと言っているが、ちょっと考えても、戦前の隣組制度、江戸時代の五人組制度などが浮かんでくる。相互監視による数の力で自由を束縛していた制度だ。この程度は、日本史の基本事項なのだが、それすら江原氏の頭には無いらしい。
冒頭にも書いたように、個々人が何を考えても別に構わないと思う。だが、江原氏の自分だけが全てを知っているという態度、事実に反することで恐怖を煽って持論に持ち込もうとするその行為は、カルト宗教のそれを何が違うのだろう?
(05年9月19日)

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永遠のフローズンチョコレート
著者:扇智史
「ねえ、うまいね、殺すの。だけど、残念ながら私は殺せないんだわ」。殺したはずの少女は、そこに立っていた。連続殺人鬼である少女・理保。理保の恋人であり、嘘をつくことが出来ない少年・基樹。二人の前に現れた死なない少女・実和。奇妙な三角関係が始まる。
なんというか、イメージとして桜庭一樹氏の一連の「少女」ものに似ている印象を受けた。
連続殺人鬼でありながら、「普通」を偽って生きる少女。嘘をつけず不器用な少年。その二人が、不老不死を持ちながらあっけらかんとした性格の少女と出会い、様々に揺さぶられる。非日常的な世界、舞台設定だからこそ生きる、二人の心理描写を追っていく。全体的には淡々とした文体ではあるんだけれども、却ってそれがビターな雰囲気を醸し出していて良い感じ。
「言葉なんて嘘っぱち」。なんか、ここで言葉を重ねても変な感じになってしまうし、上手く書ける自信がないので、これ以上はやめておこう(笑)
(06年4月9日)

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塔の町、あたしたちの街
著者:扇智史
天を突く巨大な塔の聳え立つ町・積野辺。大気に満ちる「歪気」の力で栄えるこの町は、その力を制御する守代家によって支配されている。そんな町に住む普通の少女・なごみは、同居人であり親友である華多那らと平凡な生活を送っていた。だが、ひょんなことから、自分自身の出生についての疑惑が浮かび…。
うーん…話のメインとしては、なごみと華多那の友情…というか、愛情の話、なのか? 少なくとも、臆面も無くなごみに対して「愛している」とか平気で抜かすのは只者じゃないよ、これ(笑) ま、なごみの方も、まんざらじゃない様子だし(ぇ
と、そんな二人が、自らの出生の秘密、さらにはその指名を巡って葛藤し、対立して…という辺りはね。自らの出生に秘密があり、しかも、最も信頼していたはずの華多那は、それを知っていて隠していた。しかも、その秘密に関しては…と裏切られたような想いを抱いて。一方の華多那の方も、なごみを思っているからこそ言い出せない。しかも、敵対するかも知れないから。ひたすら時間稼ぎをするだけで動けない。この辺りは良くわかるところではある、うん。その辺りは丁寧に描かれていたと思う。
ただ、何ていうか…物語のキーとなる部分が基本的に設定の小出し、っていうのはちょっとな、という感じ。世界観として、現代社会から異世界にいく、とかじゃなくて、異世界の人間が異世界で生活している…という設定にも関わらず、その世界観の説明が序盤でされないから、「実はこういう設定もあるんです」という感じでひっくり返される部分が多くてちょっと納得できないところがあった。それが残念。あと、ところどころ、なごみの喋り方が替わっているわけなんだけど、それは「昔、そういう喋り方をしていたの?」という疑問はちょっと残った。この2点については、ちょっと弱点じゃないかな? と思う(後者は些細なところだけどね)
と言っても、まだまだ設定の状態でわからない部分は多いんだよね。続刊が出たとして、その辺りがどう処理されるのか? ですな。
(07年6月23日)

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配達あかずきん
著者:大崎梢

駅に隣接したファッションビル。その6階に成風堂書店は店を構える。ごくごく普通の本屋さん。しかし、そこでは次々と事件が起こって…。
という、成風堂書店を舞台とした連作短編集。
「これほど本格的な書店ミステリは、これまでなかったのではないでしょうか。少なくともここまで書店仕事のディテールを書き込んだミステリは思いつきません」というのは、本書の巻末のおまけ(?)の書店員座談会の冒頭の言葉なんだけれど、これで全てを表してしまっているんじゃないかな? と思うくらいに、書店での仕事ぶりだとかが面白い。普段、時間つぶしに書店をうろついたりしている身としては、「なるほど、こういう風に見ているんだ」とか、「こんな感じで仕事をしているんだ」というのが感じられて面白かった。
例えば、1編目の『パンダは囁く』。「こんな本を探している」と店員に書籍を尋ねる客の話なのだけれども、これが面白い。私なんかは、書店で買い物をするときは、「この作家のこの本」という風に買う本をしっかりと調べて行くことが多いのだけれども、確かに「昨日のこの番組で紹介していた本は?]とか、「新聞の書評欄にあった本」とか断片的な情報で探さなければならい。確かにこれは「暗号解き」だよね、と(笑) しかも、そこには作者名、題名、出版社…などなど、様々な情報がある。そうすると、文字通りに「暗号だらけ」となる。また『ディスプレイ・リプレイ』なんかでは、私たち「読者」と「店員」の間にある考え方の違いだとか、そういうのが垣間見られたり、とか、これまでにない視点が新しかった。ミステリ作品としてはやや弱めな気がしないでもないが、それでも十分に納得の出来るレベルには仕上がっている。
ただ、比較的、事件というか、謎の部分が日常的なところなだけに、そこから発展する事件が大きすぎやしないか? と感じるものが多かったのが気になる。特に序盤の3作くらいが…。そんなわけで、一番好きなのは『六冊目のメッセージ』かな?
普段、書店に行かない人が読んでも勿論、十分に面白いと感じると思うんだけど、やっぱり読書が、書店によく行く人が読めば、より、それを強く感じるんじゃないかと思う。

どうでも良いのだが、本作の表紙には、ミステリフロンティアレーベルで出ている作品のタイトルがずらっと並んでいる。25作(この作品を含めて)あるのだけれども、うち、16作を読んでいた自分にびっくり。
(07年6月15日)

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