悲しみの子どもたち 罪と病を背負って
著者:岡田尊司
05年から、06年にかけての時期は、著者・岡田尊司氏が大量に書籍を出した時期である。うちでも取り扱った『脳内汚染』『誇大自己症候群』なども、この一連の時期に出版された書の一つ。そのため、読んでいてまず思ったのが、同じエピソードの使いまわしなどが非常に多いな、というところ。それぞれ、同じエピソードを使いながら、少しずつ切り口を変えたもの、というところだろうか。
実のところ、これまで読んだ2冊と比べれば、読んでいて「まだマシ」と思う部分が多かったのは確かである。というのは、基本的に、著者の医療少年院での仕事、そこの子どもたちの様子、ケースなどの紹介、といったものが強いためである。強引に社会情勢に結びつける書と比較すれば、マシである、と感じるのである。とは言え、疑問の残る部分も多い。
本書で語られる基本的なところでは、家庭環境、周囲の環境といったものの影響、そして社会の変化といったものが語られる。ただ、著者自身が述べるところに、どうも「暗黙の前提」が存在しているのである。つまり、「少年犯罪の凶悪化」「低年齢化」と言った物である。そこを前提として語ることにまず疑問が残る。
特に、5章の内容は疑問である。社会環境、ということでゲームの悪影響などを語るわけだが、これは文字通り『脳内汚染』の前段階と言って良い内容である。短い分、こちらの方が読みやすいかもしれないが(そちらの問題点については、そちらの書評を読んで欲しい)。
まぁ、家庭環境などが重要なのはわかるのだが、本当に著者の言うように子供は悪化しているのだろうか? どうも、著者の言うものの前提に疑問が残ってならないのだ(例えば、155頁の「ゲーム化する犯罪」として出されている、家出少年のケース。家出をして、美人局で金を稼いでいた少年が、少しずつ凶悪化して最終的に自動車窃盗などをしていた、というものだが、このようなケースはどう考えても昔からあるタイプの犯罪だろう)。そもそも、過去に関する考察が殆ど無いのである。このようなところで、気になって仕方が無い。また、著者の言う「ファンタジー優位」の生成には、著者が進めている読書も問題なのではないか?(著者の書く小説は、非常にグロテスクである) この辺りの考察が無く、どうも説得力に書けるのである。
それでも、これまでの書よりは読める内容であったが。考えてみると、著者の一連の書の中でもこれは初期である。すこしずつエスカレートしていったのだろうか?
(07年1月9日)

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脳内汚染からの脱出
著者:岡田尊司
なんだろうな…読了後のこの嫌な感想は…。一言で言うと、実に巧妙な書き方がされた書籍だな、というのを思わざるを得ない。ある意味では『脳内汚染』以上である。
まずは、そこから記していこう。
本書ではまず、「状況が悪化している」という前提を序文で示し、その後、具体的な例(と言いつつ、先入観を排除して読むといくらでも別の見方ができる)で恐怖感を煽り、そして、そのまま見たのでは良くわからない図や数値を著者の説明によって「これで示された」と結論付ける。そして、比較的穏当なところに対処法を示してみせる。とにかく、その組み合わせ方が巧妙なのである。そのため、まず、具体例は先入観を捨てること(もしくは、読まない)。そして、数値や表が出ている場所では、その表や数字の見方のみを読んで色々と考えてみることをお勧めする。そうすると、大分、説得力が変わってくるはずである。
例えば、第2章。著者は、ゲームをやると脳内ドーパミン量が2倍になった、と述べる。そして、これは覚醒剤の2,3倍に近く、麻薬同然のものだと述べる。…さて、この2倍とは、一体、何と比較して2倍なのだろう? ドーパミンとは、「快い」と感じたときには必ず分泌されるものである。何との比較かが大事なはずだが、それがない。そもそも、元の分泌量などもわからないし、2,3倍を叩き出したという「覚醒剤」を静脈注射量(0,2mg/s)が、どの程度なのかもわからない(この量は、一般的な覚醒剤の使用量と比較してどーなのよ?)。つまり、これを読む限り、2倍が多いのかどうかもわからないし、そもそも2倍に増えることがそこまで凄いことかどうかもわからない。そして、唯一の比較対象である覚醒剤の使用量がどのようなものなのかもわからない。ここでわかるのは、何もわからない、ということだけなのである。
同じようなことは、他にも沢山ある。「ゲームによって暴力性が増え、共感性が失われた事がイジメの増加原因」などと言う辺りもおかしい。著者は「イジメは暗数の多いもの」と言いながら、「昔は、イジメがあっても限度を知っていた」「ガキ大将のようなものが助けた」などと言い出してしまう。暗数が多いということは、昨今の増加がその部分が見えてきた、という可能性を否定できないし、「昔は〜」についてはただの回顧主義でしかない(自分はそうしていた、という人間が一番、困った存在なのである)
他にも、作中、多く使われる魚住絹代氏の調査について「有意差があるのかわからない」という批判に対しては、一々「強い関連性が認められた」という数値を出すものの、それぞれの属性の具体的な数値は出していない(ちなみに、この調査はサンプリング、ワーディングにも問題がありそうである)。他にも、「GO/NO−GO課題」について「気楽な引用」をそのまましてみたりと、批判に対しては不十分な回答に留まっている。また、紹介されるデータや事例が、日本だったり、アメリカだったり、はたまた欧州だったり…とコロコロ変わるのも問題だろう。
対処法について。著者の主張するように「ゲームやネットに依存性があるから悪い」のかどうかは別問題として、本書で示されるような病的な状況である人に対する方策としては穏便なものだと思う(内容としては、斎藤環氏のひきこもりへの対応方法と似ている) ただし、それが悪くないとしても、著者の主張が正しいという意味にはならない。少なくとも、ゲーム・ネットに限らず、あらゆる物に対して依存する人は存在する。著者は、躓きなどを契機として依存に陥る人が多い、と述べているわけであるが、だとすれば、躓きが依存へと繋がるほどに追い込んでしまう状況なども考えなければならないだろう。少なくとも、事例を見る限り、そちらが原因と考えられそうなものが多くある。それをせず、「ネット・ゲームの依存性が問題」とだけ言うのは、危険であると考える。
「ネット・ゲームが悪」という先入観を持って読むと、本書はその構成に乗せられやすい。まずは、先入観に囚われず、一つ一つの要素をよくかみ締めて検証しながら読むことをお勧めする。
(07年6月13日)

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社会脳 人生のカギをにぎるもの
著者:岡田尊司
近年、とみに注目され重視されている社会性の能力。それが、人生の幸福や社会的成功を左右している。その社会性をつかさどる社会脳とは何か?
というような内容だろうか。正直に書くと、まえがきの時点でのかなりウンザリしたのだが、本文に関して言うと、「ふ〜ん…」以外に感想が思いつかない。本当に、「社会脳とは何か?」「人間(霊長類)がこれだけ発達した社会を作ったのは、社会性を持っていたからだ。そして、そのときに、脳ではこういう活動が起こっている」ということが延々とつづられているだけ。本当にそれだけ。はっきり言って、私には正しいのかどうかもわからない。ただ、何と無く説得されてしまうような部分はある。
とは言え、全面的に信頼するのもどうかな? と思うのも確か。というのは、例の「ゲームをやるとドーパミンがいっぱいでるから麻薬と同じ」とか、「GO/NO−GO課題を気楽に引用」とかは多いし、また、「サブリミナル効果」について「強い効果がある」というようなことを言ったり(この効果について、疑問視する意見は多い)などがあり、『脳内汚染』シリーズなど同様、自説に都合の良いものを集めている感がどうしてもするのである。また、著名人の経歴などを出して「こういう例だ」なんていうのも、果たしてどこまで…。
ということで本題の部分についてはなんとなくわかるが、完全に信頼するのはどうかな? くらいなのだが、細かい部分で言うと「現代人は衰えている」という前提で書かれているなど(虐待やイジメの増加がその証拠、などというが、そもそも数え方が変わっただけで比較対象に出来ない)気になる箇所は多い。あとがきによれば、既に現代社会への処方箋という書を出すことが予定されているらしい。こちらは相当に香ばしい書になりそうだ。
(07年8月10日)

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勝負勘
著者:岡部幸雄
勝負の最後で行われる一瞬の判断。それを左右するのが「勝負勘」。それを培ったものは何か? トップジョッキーだった岡部幸雄の書き下ろし。
と、ちょっと仰々しい内容説明になったわけだが、ここで描かれている「勝負勘」を培うための方法…と言ったものは決して目新しいことでも何でもなくて、色々と勉強し、色々と経験し、努力する。当たり前のことを当たり前に行う、ということになるだろうか。それを岡部氏の騎手を志してから、騎手としての経験に照らし合わせながら綴った書という感じである。
そういう意味では、岡部氏の自伝のような側面が強いかと思う。JRA騎手を志したところから、騎手となっての無名時代。シンボリルドルフとの出会い…などなどといったものが描かれる。中でも、シンボリルドルフだ。私自身が競馬を見るようになってからでも、ビワハヤヒデ、ジェニュイン、タキシャトル…などなど、数多の名馬とのコンビを思い浮かべることができるし、それらについても触れられているのだが、シンボリルドルフに割かれるページの数が圧倒的に多く、改めてその偉大さを感じさせられた。
この書で新しい…というのも変なのだが、引退後に書かれた書、という意味で面白いのはやはり、引退を決意するところから、引退後の現在の岡部氏の生活について綴られた終章ではないだろうか? 多くの騎手が調教師など競馬サークルに残り、ファンの前に顔を見せる人が多い中、第一人者の騎手でありながら、競馬サークルから距離を取った岡部氏の近況などは興味深く読めた。
(06年10月8日)

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葬列
著者:小川勝巳
三宮明日美39歳。マルチ商法にハマって借金を作った挙句、夫はそのことで自殺未遂。障害の残る夫を残し、ラブホテルで働く日々。そんな彼女の前に、彼女をマルチ商法に誘った張本人・しのぶが現れる。木島史郎25歳。妻に逃げられ、娘を抱える暴力団員。だが、生来の木の小ささから、組では肩身の狭い思いをする日々。そんな彼に、鉄砲玉の役が回ってきて…。
表紙に「DEAR LOSER」と英語表記があるのだが、まさにその通り。主人公の二人、明日美も史郎、さらにはしのぶも人生の敗北者。そんな人々が、転がりながらも、活路を夢見て…という物語。正直に言うと、この作品、そういう主人公たちの鬱屈した状況であるとか、全体を通してのスピード感、最後のどんでん返しはお見事の一声。
ただ、ハッキリ言って、そのよさがある割に、全体的には非常にアンバランス。どんでん返しに至るまでの展開は、かなり強引であるし、また、気弱な主人公・木島が(いくら、逆上したとは言え)突如、性格が豹変してしまっていたり、「?」な部分も多い。また、物語の鍵を握る謎の女性「渚」についても、相当、無理なキャラクター付けがされているように思う(選評では、これが書きたかったのだと思う、と言われたらしいのだが、本当かいな…?)
正直、この作品だけを見るのならば、お勧めはしにくい。ただ、著者の才能のかけらが見え、横溝正史賞受賞でデビューというのは正解なんじゃないかな? というのも同時に思う。
(07年7月7日)

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お留守バンシー
著者:小河正岳
科学が迷信を駆逐しつつある19世紀中頃。闇の住人たちは、残り少ない「聖域」でひっそり暮らしていました。東欧の片田舎のこのお城もその一つ。吸血鬼であるブラド卿の下、女精(バンシー)のアリアは同僚たちと仲良く暮らしておりました。そんなある日、ブラド卿に呼ばれたアリアは、大事な役目を仰せつかいまして…。
……。これ、電撃小説大賞受賞作だよね? 『狼と香辛料』や『哀しみキメラ』を抑えて受賞したんだよね?
実のところ、設定そのものは嫌いじゃない。魔物たち、と言っても、それぞれ抜けたところだらけのある者たち。そんなところに、法王庁からの討伐者がやってきて、ご主人様は逃げてしまって…。と、非常にわかりやすい構図。ま、これで想像するのは、その討伐者を追い返す為の攻防戦…みたいな感じかな? と思ったんだ、うん。序盤を見た時、「これ、何てホーム・アローン?」と感想を書き始めようかと思ってたし(ぉぃ) けれども、悪い意味で裏切られた。
ハッキリ言うのであれば、3分の2くらいが、登場人物の紹介で終わってしまい、ちょっとだけお約束のように戦闘があって終わり、という感じ。もうちょっと巧いストーリー構成に出来なかったのだろうか? 最初からストーリーのハッキリした設定を示していたのにそれが全く活きていない。ほのぼのとしているのは全く構わないんだけど、設定を活かさずにただ日常を描かれても盛りあがりに欠ける。
何か、もうちょっと何とかならなかったのかな? というのが正直なところ。
(06年8月22日)

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お留守バンシー2
著者:小河正岳
ルイラムさんの勘違いですっかり廃墟と化してしまったオルレーユ城。しかし、当のルイラムさんはトファニアさんと喧嘩ばかり。フォン・シュバルルツェンやセルルマーニ、イルザリアもいつも通り。そんな中、城を再建すべく、殆どアリアの我侭で修復工事が決まるのですが…。
城を修復しなければいけない。でも、修復するのは人間の職人を呼ばなければならない。けれども、自分たちが魔物であることをバレてはいけない…ということで、人間の城であるように見せかけようとてんやわんや…と。仲の悪いルイラムとトファニアは喧嘩してばかりだし、他の魔物もバレそうなことをして…と。うーん…なんて言うか…相変わらずだな…という印象。のほほん魔物物語とでも言うか。これはこれで、一種の味と見て良いと思うんだけどね。
この巻に関して言うとね…ハッキリ言って投げっぱなし、と言う感じ。ま、続くから良いんだけど…。序盤の展開から色々と事件が起きたり、新キャラが登場したり…としているんだけど、それが全て投げっぱなしのままに進展しているんだ。この巻自体では殆ど解決せず置きっぱなしにして進んじゃっているわけで、これこの後どーすんのよ? という感じがしてならない。
ま、のほほんとした作品なので、気楽に読むには良いんだろうけど、変なところで心配になった(苦笑)
(06年11月11日)

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お留守バンシー3
著者:小河正岳
ルイラムさんに対して放たれた刺客・ドルジュさんも事態を理解してくれて、平穏な日々を取り戻したオルレーユ城。城の補修をしつつも、すっかりいつも通り。そんな中、トファニアおばさんは、新聞の広告記事をチェックしていて…。
もう、ステキなくらいにテンションがかわらねぇ(笑) ある意味、「愛すべきマンネリ」を行ってるような…。
今回も話のパターンとしては、同じなようなもの。中盤過ぎまでは、城の面々が出てきてのの〜〜〜んびりとした日常。そして、終盤に、引っ掻き回される事件が起こって、何だかんだでやや間の抜けた結末を迎える…と。まぁ、これまでのテイストをそのまんま持ってきているので、それを期待している人には良いんだろうけど…。
前回の終盤に登場して、今回からいつくことになったドルジュは、ある意味、もっともマトモなキャラなのかも知れない。黒い刺客(笑)さえみなければ…。
というか、普通ならば、3巻まで来れば多少なりともシリーズ全体を通しての物語に動きが出るものだが…これ、シリーズ全体としてどこへ向かわせるつもりなのだろう? 全く動いてないんですけど。
(07年1月12日)

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お留守バンシー4
著者:小河正岳
ユシアを守って、身体を失ってしまったフォン・シュバルツェン。その身体に憑依した魔神は、城の地下に封じられていた。何とか取り戻して…というシュバルツェンの願いも虚しく…。
うーん…驚いた。何に驚いたって、あとがきに一番驚いた。これが最終巻だったとはね…。何か、これで最終巻…っていうそのことに。そして、色々と投げっぱなしでシリーズ終了というところに。
ということで…話としては、相変わらず…以外には、あんまりないんだけどね。シュバルツェンに取り付いた魔神を巡ってのルイラムとトファニアの争いに、イルザリアの単位問題…と、毎度のごとくののんびりとした話。話そのものとしては、然後半で2つの話があるような感じだったんだけどね…。まぁ、何だかんだで…結構、この雰囲気に慣れてきているところだっただけに、結構、ここで終わり方には驚いた。
…というだけに、もう少し、何か綺麗なまとめ方ができなかったかな…というのはある。色々な問題がこんがらがった状態でそのまんま投げっぱなしにされて終わっちゃったからね。うーん…。そこが、何か勿体無いというか、何というか…。
(07年5月14日)

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子どもの危機をどう見るか
著者:尾木直樹

私の現在、興味のある読書テーマのひとつに「キレる」という言葉についてのものがる。最近、少年事件であるとかを語るとき、ほぼ必ずといって良いほどに出てくるテーマであるためだ。が、私のはその「キレる」の定義を知らないし、どうも「便利な言葉」として使われているだけのように思うためである。そして、「キレる」という言葉を使った書をいくつか読んでいるのであるが、一層、その思いは強くなったと言って良い。

さて、この書であるが…う〜ん…心情的に共感できるとか、部分的に正しいと思う場所はある。例えば、1章にある、いじめの問題。「学校が認定しなければ、いじめにならない」では本質が見えるはずが無い、とかその通りだと思うし。
が、書全体を眺めてみると、どうもデータに信頼性が無い。簡単に言うと、比較の視点が欠けているのである。例えば、89頁にあるアンケート結果。保育士に対して、子どもの変化を尋ねたものなのであるが、これはあくまでも「保育士の印象」に依存しているに過ぎない。人間、昔のことというのは、極論の形で見てしまうし、当然、メディアなどで刷り込まれるイメージもあろう。この結果で、変化している、などと言えるだろうか?
どうも読んでいて著者は、自らの主張が先にあり、その物語に都合の良いデータを出しているのではなかろうか? という疑問が付きまとう。それを感じたのが、165〜166頁にある自己評価などの国際比較である。日本ではこれが低い。これこそが、子どもたちが「キレる」ようになった原因ではなかろうか? と著者はするのである。しかし、考えてみてほしい。日本人の自己評価が低いことはそのデータからわかる。だが、それが「キレる」原因であるとするならば、各国の校内暴力の件数(割合)などと併せて見なければなるまい。自己評価の高い国の方が件数が多かったら無関係となってしまうではないか。同じようなことは、凶悪な少年犯罪件数がまったく示されていない、とかからも伺える(凶悪化している、というのならば増えていて当然だし、定義が変わったり、学校の開放性によって大きく数値が変動する校内暴力件数よりもよほど信頼できると思うのだが、実際に殺人などのような凶悪犯罪の数は増えていない)。
前にも書いたように、心情的に頷ける、部分的に頷けるところはある。だが、データの扱い方など、どうも信頼できない部分が多い。
(05年9月4日)

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「学力低下」をどうみるか
著者:尾木直樹

この書が出たのが02年の末。つまり、3年以上前の書であって、ちょとと古い、というところはある。ただ、現在でも相変わらず「学力低下」だとかの話は続いているし、全く無駄、ということも無いだろう、ということで手に取った次第。
さて、内容に入る前に、著者の立場を明かにした方が良いだろう。著者は、いわゆる「ゆとり教育」の支持者、という立場を取っている。よって、その理念であるとか、批判への解答を色々と行っている。
まず、著者は、巷で言われている「学力低下」議論の変遷。そして、その問題点を指摘する。この問題点とは、教育を専門外とするものが大きな声をあげ、メディアにより歪められ、誇大に喧伝されている、ということ。OECDの調査の順位が下がった、というものが良く言われるが、参加国数の増加、また相対的な位置を考えれば「低下」とは呼びにくいこと。また、批判論者の多くが「受験エリート」によるものであり、その意見を一般化することの危険性。更には、二転三転し、結果として当初の目的すらも変更してしまった政府の方針への批判など。
とかく、「教科書がこんなに薄い」「台形の公式さえ教えない」などとい部分的な批判から述べられるだけの「ゆとり教育」の本来の理念であるとかは、私個人としては賛成だし、この辺りの著者の言い分に関してはよくわかった。勿論、それを運用する際の問題点だとかも含めて。
ただ、その一方でいくらか首をひねらざるを得ない部分もある。例えば2章。「学力低下」について書かれたところで、前半の国際順位が下がっても、それが即ち低下を意味していない、というのは納得。しかし、「意欲が低下しているのが問題」という部分にはかなり疑問が残る。というのは、海外の国との比較でしかない、という点である。意欲だとか、そういうものは文化との関わりも多く、海外と比較するものでは無いだろう。「低下」と言うのならば、時系列評価をすべきである。海外との比較で「問題だ」と言うのでは、著者が批判する偏差値による評価と同じである(国際順位なども同じ事が言えるのだが)。また、OECDの調査は190ヶ国を対象にしているわけだが、中にはエリート層しか教育を受けられない国、国家体制として言論の自由などが無い国もあろう。そういうものを含めて、海外と比べて…どうのこうの、というのも意味が無いと考える。
また、これまでの教育体制を批判する際に安易に社会的な事件だとかに結びつけるのもいかがなものか? 「偏差値主義が、現在のモラルハザードに繋がった」だとかと言うのは、正直、苦笑するしかない。著者は「ゆとり教育」批判に対して「門外漢が、歪ませて伝えてしまった」と嘆いているわけだが、著者のしていることも同様ではないか?
「ゆとり教育」に関する理念、そして、それが何故失敗したか…というようなものについては、よくわかるのだが、注意して読むべき部分もあろうかと思う。
(06年1月7日)

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思春期の危機をどう見るか
著者:尾木直樹
これまでにも、何冊か同著者の著作は読んだのだが、どうも著者の検証は非常に丁寧な検証がされている部分と、極めて乱暴な検証がされている部分が混同している、というのが感じられてならなかった。そして、本書でもやはり同じようなことを感じざるを得なかった。
著者の専門は「教育学」であり、いわゆる「ゆとり教育」の推進者である。その「ゆとり教育」そのものについての賛否は色々とあると思うのだが、私は100%否定されるべきものではないと思うし、ここで述べられていることにも一理あると思う。また、学力低下論争の発端となったOECDによる学力調査の分析なども非常に冷静で好感が持てる。また、著者の現在の教育政策批判に鋭いと感じる部分もある。この辺り(2章前半)は、なるほど、と思わされる部分が多かった。
が、同時に非常に乱暴な分析も目に付く。この書では「思春期の少年達は危機的状況にある」という前提があるのだが、本当にそうなのだろうか? 例えば、第1章で、少年が暴力事件などを扱うのだが、著者は97年から「少年非行、第4のピーク」と述べるのであるが、97年とは、警察が少年犯罪の取り締まりを方向転換した年である。また、平成17年9月に発表された校内暴力件数を挙げ、特に小学校で増えている、と述べる。しかし、文部科学省のデータを見ると、平成8年〜9年で2倍以上に増加したり、はたまた、平成16年の東京都と神奈川県で数値が7倍近く違っていたりする。仮に暴力的になった、としてもこのような増加はありえない話であり、他の要素を考える必要がある(つまり、カウント方法の変化などだ)。また児童虐待やネット犯罪の急増などの話についても同様だ(児童虐待は、そもそも警察の民事不介入方針などの改善により、それまでが0に近い状態だったのが急増の原因であるし、ネット犯罪についてもネット利用者の急増というところを考えれば増えて当然である)。そのようなところを一切顧みずに「危機的状況」と述べ、しかも、つめ込み教育批判などに転嫁させてしまうのでは、結論が先にあった、といわれても仕方あるまい。
著者が実践すべし、と述べる意見1つ1つを考えれば、前提が違っていてもするべきだと思えるものはある(勿論、「?」と思うものもある)。しかし、先に述べたように、前提そのものに疑問がつき、しかも、そこからかなり乱暴な形で議論を進めることが多いが故に全体を通してみるとおかしな印象にならざるをえなかった。
(06年5月21日)

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ウェブ汚染社会
著者:尾木直樹
これまで私が読んできた尾木氏の著書というのは、主に「学力」「教育」に関する書が多かった。尾木氏自身は、いわゆる「ゆとり教育」論者であり、一般に言われる「ゆとり教育」批判に対する反論であるとかは、納得させられるものがあった。が、その一方で「詰め込み教育」批判に転じると途端に乱暴な議論になってしまうとか、結局、「今の子どもは危険である」といった前提を説明も無く肯定しているとか、落差の激しさを感じざるを得ない、というのが私の尾木氏評である。
その上で本書であるが、その尾木氏の「悪い部分」ばかりが集まっている書だな、と言う風に思えてならない。
本書はまず、第1章で著者が行ったアンケート調査を元に実態を調べる、という形になる。まず、ここである。毎度しつこいといわれるかもしれないが、ここではまずサンプリングの問題が出る。著者は、著者のゼミ生に、「自分の母校を中心にアンケート調査を行った」というのである。これだけで、サンプルに偏りがあるのはわかるだろう。私が落ちた大学だから、じゃないけど(笑)、法政大学って一応、「難関大学」と言われるようなレベルの学校なわけである。その学生の母校…となれば、やはり進学校とかが多くなるわけだ。少なくとも、私の田舎にあるような「県の最底辺校」みたいな学校の生徒は少なかろう。
また、その分析にも問題がある。例えば、「自分を偽っていることがある」という部分でそのことを「虚しい行為」と言ってしまう。しかし、これを虚しいと考えるのは著者の主観以外の何者でも無い。しかも、ここで自分を偽るには、「自分の名前をニックネーム(HN)にする」なども含んでいるのだから…。さらに「2ちゃんねる」を巡る言説などは、最早、ただの言いがかりレベルだ。
(問題があるとは言え)それでも1章はまだ、アンケートを中心に行っているのだが、2章以降はさらにダメ。基本的に、著者が「こう思う」だけでストーリーが進んでしまう。2章では、「コミュニケーション不全」と言うのだが、著者の講義の受講生の「昔は、もっとコミュニケーション能力がある人が多かったと思う」とか、新聞のネットに纏わる調査で「ネットがあるとこういうマイナス面があると思う」というのを根拠に「ネットによってコミュニケーション不全に陥る」と言いきってしまうのはいかがなものか。
そもそも、ネット犯罪の増加というのは、利用者が増えているのだから当たり前のことである。人口100人の村と100万人の都市で犯罪件数を比べたら後者が多いのは当然だろう。それと同じはずだ。また、ネットでコミュニケーション不全などというのに関しても、そもそも、実際の世界で本音を言えないというのは多くあるのではないか? 「普段の鬱憤などを部活動などで昇華させる」のは良いとしているが、本当に昇華できているのか? 部活動の厳しい上下関係などで逆に鬱憤をためることだって多くないだろうか?
著者の訴える対策、フィルタリングを行う、とか、親(大人)がもっとネットを知る、とかは別に反対しない。ただ、そこに至るまでの議論の進め方の乱暴さなどを考慮すると、あまり良い書だとは考えられない。
(07年2月22日)

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教師格差
著者:尾木直樹
「学力低下」「学級崩壊」「教育再生会議」…教育を取り巻く言説が多く囁かれる。そんな中、「心の病」などで休職・退職する教員が急増している。今、教師に一体何が起こっているのだろうか?
というのが、書かれている中心であるが、教師を取り巻く環境を中心として教育全般について提言されている。そして、読んでいて「やっぱり、尾木直樹だな」と感じる部分が多かった。丁寧な部分と、乱暴この上ない部分が混在している、とでも言うか…。
著者が主張している教師を巡る風当たりが強まっていること。教師の労働が非常に重労働であり、また、仕事量そのものがどんどん増えていること。教育行政が考える「良い教師」と、親が考える「良い教師」、子供の考える「良い教師」像の間にギャップがあり、それを教育行政の側の考えに従わせることが良いことなのか? という提言。そして、その教育行政に意見する「教育再生会議」があまりに現場の実感とかけ離れていて、免許更新制度などは却って優秀な人材がこなくなる状況を作り出すだけではないか? というような指摘は素直に納得できる。
実際問題として、教育っていうのは、誰でもが経験してきたことで、なおかつ、親になればもう1度2度と体験すること。だから、誰でもが口出しをしようと思えば出来ること。ただし、その中に教師という視点はあまり見られない。実際の現場に立ち、子供と接するのは教師であり、その立場を考えないというのは問題だと思う。そういう意味でも、本書は重要な指摘をしていると思う。著者が言うように、学校管理などから、教師が相互評価することになって、相談できなくなって孤立してしまい(問題がある、と相談すればその時点で評価が下がってしまう)、結果としてイジメ問題などを悪化させる可能性はあるだろうし、教員免許の更新制導入などでリスクが大きくなりすぎ、結果として人材の流出を招いてしまう、というのも理解できる。しかも、安倍政権のやり方は「金は出さないが、口を出す」という最悪なものなのも確かなわけだし、さらに「教育とは何か?」なしに話が進んでいる点も問題が大きいと思っていただけに納得できる部分は多かった。
ただ、やはり尾木直樹氏は、詰めが甘い、というか、主張の中に乱暴な部分が多く見受けられるのが残念。特に、第1章などはその悪いところをこれでもか、と詰めた形になっている。第1章は、「教師力は落ちたのか?」と題して、問題教師の話などが展開されるのだが、ここではマスコミでこういう事件が報道された、こういう事例の相談が自分のところにあった、こうじゃないかと思う…と言った客観的な資料なく進み「教師力が落ちているのは確か」などと言ってしまう。これはどうなのだろうか? ある一教師の猥褻事件などを取り上げて、それを教師全体の問題と捉えることで不信感が煽られた、などと言っているわけだが、著者自身が同じことをしてしまっている(マスコミ報道は当然だし、著者の下への相談も「一部の事例」ととるべきだろう)。他にも、客観的な話なく、子供たちに問題が起こっている、とか、そういう暗黙の前提が出来ており、首を傾げざるを得ない部分がちらほら見受けられる。また、教師は、全ての面で子供を教育する存在であるべき、というようなものについては、もう少し理由などを書いて欲しかった(私は、塾の講師化というのも、それはそれで悪く無いと思えるだけに)。」
教師そのものの置かれた立場を考え、そして、教師・教育の現場というものを把握して、そこにあった教育改革が重要、という指摘は正しいと思えるだけに、その周囲の議論の乱暴さが残念でならない。
(07年8月6日)

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コールドゲーム
著者:荻原浩

高校3年の夏、甲子園の地方予選で惨敗。目標を失った光也は、幼馴染であり、中学時代、クラス一の問題児であった亮太に呼び出される。亮太によれば、同じく不良仲間だった弘樹が何者かに襲われたという。そして、弘樹が犯人としてあげた人物。それは、中学時代、亮太らによってイジメを受けていたトロ吉こと、廣吉だと言う…。
文庫版の内容紹介には、「青春ミステリ」となっているんだけど、「ミステリ」というとちょっと違う気がする。イタズラで済むようなレベルのものから、生死に関わる重要事件。一見、単発的なものに見えながら「廣吉へのイジメ」というキーワードで結ばれる事件の数々。正体の見えない「廣吉」に対する恐怖という意味ではホラー的な要素が強いし、その廣吉を探し出せ、という意味では冒険小説的な印象もある。
とにかくこの作品、全ての人物に感情移入ができない。光也たちが、自ら廣吉を探すのは、「自分で決着をつけるため」といえば聞こえが良いが、実のところは単に過去の罪を認めたくないだけ、に集約されるし、廣吉もその異常性などから感情移入がしにくい。感情移入がしにくい、っていうのは欠点のように思えるけれども、この作品は計算してそうしている感がある。なぜなら、イジメの問題っていうのは、そもそもがそういうものだから。誰にも感情移入できない、というところで、それを表している…と取るのは、ヨイショし過ぎかな?(笑)
決して後味の良い結末っていうわけじゃないんだけど、それでもちょっと綺麗にまとまり過ぎているかな? という感じがする。どんでん返しは結末が予想できたし、ピンチの脱出もちょっと安直な感じが…。ただ、全体を通せば楽しめた。

…と、この作品が、私にとって初の荻原浩作品だったわけだけど、色々な人の意見を読む限り、荻原浩作品としてはかなり異色の作品で、普段はもっとコメディ色の強い作品が多いらしい。最初に読んだのがこの作品、というのは果たして良いのか悪いのか…。ちょっと判断に困るところである(笑)
(05年11月8日)

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