光源
著者:桐野夏生

映画カメラマンである有村は、かつての恋人で、プロデューサーである優子から声をかけられる。『ポートレート24』。低予算、新人監督、俳優、女優…それぞれの思惑の中、撮影は始まる…。
文庫巻末の解説によれば、単行本時の帯には「これまで誰も読んだことの無い小説」とあったという。実際、それは確かだと思う。そして、同時に、桐野夏生作品だからこそ書けた作品ではないか、とも感じる。ただし、読んでいて楽しい作品、とはいえないが…。
冒頭で紹介文みたいなもは書いたが、本作はミステリ作品ではない。病に倒れた夫との間で葛藤を持ちながらも、プロデューサーとして、映画を成功させたい優子。自らの企画が映画となることに喜びながらも、夢と現実の間で苦しむ新人監督・三蔵。監督の幼稚な部分に苛立ちながらも撮影を続け、優子、そして、主演女優・佐和との間に立たされる有村。元アイドル、ヌード写真という状況からの脱出を図りたい佐和。主演のハズながら、その地位を脅かされることを恐れていく高見…。それぞれの自我・思惑がぶつかっていく…。
普通の作品であれば、それらの対立を描きつつも、やがて一本の作品となっていく物語が展開する。もしくは、それぞれの対立から破綻していく様を描く…という形になるかも知れない。だが、この作品の場合、そうならない。最初から、それぞれの思惑は異なり、そして、それは最後まで交わらない。ただただ、それぞれの思惑の違い・対立が描かれるだけ。
本作の場合、特定の主人公は存在しない。多数の視点から描かれる物語は、それぞれのぶつかり合いを描くだけ。そこにあるのは、人間のエゴとでも言うべきもの。ドロドロというのともちょっと違う、人間くささのようなもの。
ハッキリ言って、読み終わっての爽快感みたいなものは無い。物語としての山や谷がある、とも言いがたい。スッキリもしない。けれども、そこに、いや、そうだからこその人々の生活臭が漂ってくるように感じる。

にしても、文庫裏付けの「逆プロジェクトX」はねぇべよ…。
(07年7月17日)

BACK


天使に見捨てられた夜
著者:桐野夏生
AV女優の一色リナを探して欲しい。探偵・村野ミロは、フェミニズム系の出版社を営む渡辺房江から依頼を受ける。一直線で、強引な渡辺に振り回されながらも、製作会社などを当たるミロだったが、「死にたいのか?」との脅迫が入る。そして…。
桐野氏のデビュー作『顔に降りかかる雨』に続く2作目で、村野ミロシリーズの第2作。
前作もそうだし、また、その後の作品もそうなのだけれども、極めて濃密な心理描写が特徴。文庫裏表紙の内容説明では、「リナの暗い過去」と言うリナの側の物語が中心のように描かれているが、やはり中心は、主人公であるミロの物語、そして、彼女の出会う女たちの物語なのだと思う。
脅迫を受けたるなどの妨害をされながらも調査を続けるミロ。そんな彼女の心を捉えるのは、同性愛者の友野と敵対する側に立つ矢代。孤高の存在であり、心のつながりのみを追及する友野と、金のため、には何でも出来る矢代。二人の男との間に揺れ動き、しかし、それでも自らの歩みは止めない…。
そして、そんなミロの周囲に現れる渡辺、牧子、氷室、そして…リナと言った女性たちの生き様…。勿論、男性キャラクターは沢山出てきているんだけど、彼らとの比較、そして、ミロとの対比と類似があって、その生き様が浮かび上がってくるのだと思う。
リナがAV女優である、というような部分について、あまり必然性がないかな? とか、細かいところで気になる箇所はあるもののデビュー2作目にして、既に、作風そのものは出来上がっていたのだなぁ…というのは強く感じる。
(07年10月2日)

BACK


水の眠り、灰の夢
著者:桐野夏生
昭和38年9月。世間を騒がせている爆弾魔・草加次郎の事件に週刊誌のトップ屋・村野善三は巻き込まれる。事件を追う村野だったが、ふとしたことで知り合った女子高生が殺害されたことで、苦しい立場に陥っていく…。
桐野作品のシリーズの1つ。村野ミロのシリーズ。そのミロの養父である善三の若き日を描いた作品。シリーズの番外編とも言うべき作品だとは思うが、単独の作品として読んでも問題ないと思う(私は読み始めてから、シリーズと関連があると知った)
桐野作品というと、「ドロドロしている人間関係」であるが、本作でも、それはある。トップ屋として、草加次郎を追う村野。そんな村野の周囲で感じられる変化の兆し。その変化の裏に見え隠れする右翼の大物の陰に、女子高生事件。序盤から多くの事件、出来事、人間関係が入り組む。そして、その中を試行錯誤しながら、展開する物語。無論、これらの中にもつながりが出来ていき、入り組んだ人間関係が整理されたときの開放感というか、達成感は心地よい。そして、最後の最後まで引き伸ばされる真相の発覚へ…の流れも見事。
ただ、私にとっては、それ以上に、常に流れる「変化」の空気が印象的。
物語の舞台は、東京五輪の開催が決まり、急ピッチで変革を続ける時代の東京。その雰囲気は、冒頭から漂ってくる。フリーのトップ屋たちを雇っての雑誌作りから、社員記者による雑誌作りへの変化が起こり始めている編集部。村野をその世界に呼んだボスとも言うべき遠山が身を引き、親友・後藤も別の世界へ…。その導入部から、物語の後、そして、ミロのシリーズへ繋がる発端と言う「変化」へと繋がっていく。ミロの養父・善三の人生の物語、としても優れた作品ではないかと思う。
(08年1月15日)

BACK


蝶たちは今……
著者:日下圭介
旅先のバスの中、大学生の康雄は、自分の鞄が誰かのものと入れ替わっていることに気付く。そこには一通の手紙。だが、その手は身の差出人は、3年前、既に死んでいることが判明。しかも、受け取り人もまた17年前に事故死していて…。
第21回江戸川乱歩賞受賞作。
物凄く後味が悪いな。これは、好みの問題だろうけど、個人的にこれだけ嫌ーな後読感を残す作品に乱歩賞で出会えるとは思っていなかった。いや、褒め言葉ね(笑)
この作品、なかなか凝った形になっているのが面白い。死者と死者の間で交わされていた手紙、というところから始まり、そこから、その死者について調べ上げて行く…。そこで、ある程度、平坦に続いたところで、事件で人押し、そして最後のどんでん返し、というのななかなか嬉しいハプニング。強烈なスタートのあと、平坦な展開、強烈などんでん返し、という展開は見事。
トリックに関して言うと、個人的にこれは何とも言い難い(苦笑)。と言うのは、これは多分、ジェネレーションギャップという問題があると思う。私はこのトリックに欠点がありそうだな、と感じるのだが、実際にそれについて知らないので(詳しくないので)何とも言い難い。一応は納得できるのだが、何かもやもやしている…。欠点とは言わないが。
もう一つ、最後のどんでん返し部分については、ちょっと調べるとすぐにバレてしまいそうに思えるところが気になる。流石にここまで上手く行くかどうか…。
とは言え、すっかり最後のトリックにやられてしまった…。それだけが強烈に残っている。
(06年9月25日)

BACK


子どもが壊れる家
著者:草薙厚子
読了後の感想を一言で言うのならば、「著者は一体、何を言いたかったの?」ということである。
著者は、近年増えている(としている)凶悪少年犯罪は、家庭での過干渉とゲームの悪影響だ、とする。第1章では、過干渉が増えてきたという概論。第2章で、神戸の酒鬼薔薇事件、佐世保の小6女児殺害事件、佐賀のバスジャック事件のケースファイル。第3章でゲームの悪影響、第4章でゲームと凶悪事件の関連…という構成になっている。しかしねぇ…。
まず、第1章に関してだが、一切、客観的なデータが無い。いくつかの、マスコミで大々的に報道された事件と、ベテラン教師がこう言っている…というものばかりである。その中には事実を都合よく捻じ曲げているとしか思えない箇所も多い。例えば、少年犯罪が「生活苦」から「遊び型」になったとして、検挙者の中の万引きの率が急増した、というのだが、これはむしろ少年事件の少なさによる部分が多い。事件が少ないから、万引きなどにも手が回るのである。殺人事件と万引き、警察はどっちを優先するか、言うまでもあるまい。また、HIV講習に若い女性が多く行くようになったことまで、「金のために、売春なども厭わないためだ」の補強材料にするのは酷過ぎやしないか?
3章に関してもそうだ。ゲームの悪影響として、前頭前野が発達しない、というものが予想通りに出てきたがこれも凄い。川島隆太氏と森昭雄氏が出てくるのだが、111頁に出てくる川島氏の言葉は、川島氏自身が「忌まわしい過去」として否定しているものだし、森氏のゲーム脳が理論破綻甚だしいものであることは言うまでもない。しかも、川島氏に関しては、「ゲームに癒し効果があるから完全否定できない」というものを「癒しなんか無い」と完全否定しまう。川島氏の否定したものを取り上げ、川島氏の主張で、著者に都合の悪い部分は見なかったことにするのはどうなのだろう。その他の「脳に悪影響」は、片岡直樹氏、澤口俊之氏という、ゲーム脳を根拠に主張している人々なので、意味が無い。と、同時に、ゲーム脳などで訴えられているのは「ゲームを取り上げ、変わりにスポーツやお手玉をさせろ!」という子供に対する過干渉の勧めである。既に自己矛盾である。
4章も凄い。ある2つの取材を通して「ゲームが少年事件の特別に重大なきっかけなるのだ」と「直感」で確信したのだと言う。直感かよ。しかも、その取材というのが凄い。「これらのケースで親の過干渉がどのように行われたのか、あるいはなかったのか、完全に取材できなかった」と、自ら不完全であることを言っているのに、である。自ら不完全である、という取材に基づく「直感」で原因が作れてしまうのならば、どんなことでも原因にできる。逆にいうと、その「直感」により、ゲーム以外のところに目を向けなくなっていた、という危険性すらあることに気づかないのだろうか? 言っては何だが、結論ありきの取材が行われたように、私はこの書をよんで「直感」した。
「完全に取材できなかった」ことを元にした「過干渉」と、理論破綻甚だしい「ゲーム脳理論」などを元にしたゲーム悪影響。これが凶悪事件の元凶だ、とはこれ如何に。
(05年10月24日)

BACK


追跡! 「佐世保小六女児同級生殺害事件」
著者:草薙厚子
どうも釈然としない。そんな感じの後読感だ。
04年に起こった小6女児による同級生殺害事件。本書は、その事件のその後を追ったルポである。
なるほど、この書で書かれていることも事件の原因となった一因であることは言えよう。加害女児の家庭環境、アスペルガー症候群、学校側の問題…などと言った要因が事件の一端であることは十分に考えられる。自立支援施設での様子なども興味深い部分がないわけではない。ただ、どうもここに書かれたことに偏りを感じざるを得ない。
私がそう感じたのは、ほぼ同時期に著者が書いていたと思われる『子どもが壊れる家』を読んだときに感じた違和感があるからだろう。著者はこの書の中で、この事件のことを「家庭での過干渉が原因で起きた事件」の典型例として取り上げている。勿論、それが完全に的外れ、とは言わないが、どうもそのような部分ばかりがクローズアップされ過ぎている感がしてならないのだ。例えば、加害女児は「コミュニケーション能力の発達が遅い」などと言ったことが散々出てくるのだが、その割には学校での人間関係などは殆ど書かれていない。わずかに事件前後の様子が書かれているに過ぎない。インタビューなどでも質問事項は家庭での躾などに関することが主である。取材をしていないのか、取材をしたけど削除したのかは知らないが、どうも一部の事実に原因を求めようとしているのではないだろうか? あとがきで「事件を立体的に検証できた」と著者は言うが、残念ながら私にはそう感じられなかった。先述の『子どもが壊れる家』で、「不完全な取材」で「ゲームが事件の原因だ」と「直感」してゲーム脳のような擬似科学に接近してしまった前例もあるし。
また、著者が取材した際の出来事、思いなどを交えながら進んで行くのだが、その中でどうにも、著者の独善的な考え方が鼻につくのも気になる。例えば、3章「最終審判」では、著者が加害女児の家に取材に訪れた際の事が描かれている。そこでは、加害女児の保護者が沈黙を保っていることについて「両親は被害者遺族に謝罪の意を示さなくてはならない」と加害女児の家を訪れ、何度もドアを叩いた挙句、大声で呼びかけを行ったとある。確かに、沈黙を保つ加害者家族や保身のために緘口令をしいた学校だとかは褒められた事だと思えないのだが、著者の行動も同様だ。そのような行動をするからこそ、口を閉ざすとは考えないのだろうか? どうも、私には著者の「私は絶対に正しい」というような独善性が気になる。それが、先に述べた一部をクローズアップさせ過ぎでは? というのも、その辺りと関連性があるように感じられた。
最初にも書いたが、この書で書かれていることは事実の一部ではあろう。ただし、これで全てだ、ということは無いと考える。
(05年12月21日)

BACK


テレビ放送の正しい見方
著者:草野厚
一般的に「公平」と思われるテレビ報道、だが実際には歪んでいる。時間の制約、視聴率、スポンサー、映像のインパクト、予算…など、構造的にも歪んだものになりやすい。実例を示しながら、それを表した書。
本書では、第1章でNHKのドキュメンタリー番組を2つ。それらを通し、ある「結論」を想定し、それに沿うような形で取材し、構成されていくことがあることを描く。第2章では、不審船事件とガイドライン法案について、森(元)首相の「神の国」発言の2つの事例について各局の報道の仕方を比較し、それぞれのスタンスの違いを表す(ただし、偏り、公平などは著者の判断であり、その分析が「正しい」と感じるかどうかは、また別の話だろう)。そして、第3章で、まとめ、という形をとっている。
冒頭部分にも書いたのだが、テレビ報道というのは絵があつのが強みではあるが、逆に言えば「絵」がなければニュースにならない。時間的制約もあり、短く・テンポよく・わかりやすくすることが求められる。さらに、何度も読み返せる書籍や新聞と違い、基本的には放映したら放映しっぱなしになりやすい…など、歪みやすい理由がよくわかる。そういう部分では、非常に興味深かった。
ただ、第3章で描かれていることを見ると、このタイトルはあっているのかどうか? 勿論、こういう構造がある、という風に理解してみるべし、というのは良いとしても、「放送局は強い権限を持つオンブズマン制度を作るべき」などの提言は明かに視聴者に言っても栓のないことである(勿論、提言する意義はあるが)。その辺りが残念である。
(05年11月20日)

BACK


悪魔のカタルシス
著者:鯨統一郎

祥平はある日、悪魔を見てしまった。あれは錯覚か、それとも…。人類の滅亡を企む悪魔と戦うため、仲間を集めるが…。

この作品、特徴を言うのならば、中盤からのどんでん返しに次ぐどんでん返しだと思う。「○○は敵か?味方か?」と次々と立場がひっくり返され、またひっくり返され…と最後まで続いていく。
ただ、正直、これがかなり苦しい。どんでん返しの連続自体は別に構わないのだが、特に根拠も無く「○○は悪魔だ」と言われたから、信じる。そして、別の人から「いや、そういった方こそ悪魔だ」と言われたので、やっぱり反対に傾く…では納得しにくい。「悪魔についての新解釈」なんていうのも、特に…という感じだし、ちょっとそれだけで引っ張るのは無理があるように思う。
(05年3月28日)

BACK


邪馬台国はどこですか?
著者:鯨統一郎

バーに集まる3人の常連客。彼らが集まると必ず、歴史バトルが開始される。釈迦は悟りを開いていない!? 邪馬台国があったのは○○県!? 聖徳太子の正体は!? などなど、「歴史の常識」が次々とひっくり返されて行く。
いや〜…これ、面白いわ。
「歴史の常識」に対して突拍子もない説を唱える宮田、それに対して反論を行う静香という役割付けで、それらの説を検証して行くのだけれども、これが面白い。「歴史」とか「史学」だとか言うと、お堅い印象を受けるかもしれないのだが、軽妙な文体で描かれているので、全くそういうことを感じることなく読める。
残念ながら私は歴史に詳しくないので、ここで示されている資料であるとかが本物なのかどうか、フィクションが混じっているのかどうか、などということは判断がつきかねるのだが、「歴史」というものが、資料などを「どう解釈したか」ということによって出来上がっているだけに、こういうのもアリだという風に思う。「歴史」というのが身近に感じられる作品なのではないだろうか?
ただ、これを「ミステリ」っていうジャンルに入れることだけは抵抗があるな。
(05年7月8日)

BACK


タイムスリップ森鴎外
著者:鯨統一郎
大正11年。最近、急激な体力の衰えを感じていた森鴎外は、毒を盛られていると悟り、避難を試みる。が、その途上、何者かに襲われ、意識を失ってしまう。気づくと、そこは2002年の渋谷のど真ん中。タイムスリップしてしまった鴎外は、助けてくれた女子高生・うらら達と共に自分を襲った犯人、元の時代に戻る方法を探る。
紹介文だけ見ると、堅いミステリっぽくなるんだけど、どちらかと言えば、ミステリというよりも、タイムスリップしてしまった森鴎外が現代社会に戸惑いながらも順応していき、また、その中での森鴎外という「お堅いイメージ」とのギャップを楽しむべき作品だと思う。文学賞に芥川賞があるのに、森賞が無いことを悔しがったり、書店で自分の本を探して喜んだり…。さらにはインターネットを使いこなし、メールでやりとりをし、しまいにゃラップまで披露する。そういう面白みがふんだんに取りこまれた作品だと思う。また一方で、そんな中で、歴史の改ざんが始まる緊張感、豊富な日本文学史の話なども組み込まれていて実にテンポよく読めた。
ま、そのミステリ的な部分は殆どオマケみたいなものだと思っても良いかもしれない。一応、森鴎外である理由はあるんだけれども、全体的にみればかなりこじつけのようなところが多いし。って、そっちを中心に読む人はいないと思うけどさ。
うん、気楽に読むのに適した作品じゃないかな。
(05年9月25日)

BACK


タイムスリップ明治維新
著者:鯨統一郎

森鴎外が元に戻って、平凡な日々を過ごしていた麗は、ひょんなことから、1860年へとタイムスリップしてしまう。桂小五郎に助けられた麗は、街中で架空人物であるはずの森の石松に出会う。石松は、自分は未来人で、元の時代へ帰るには史実通りに明治維新が達成されなければならいと告げる…。
ということで、『タイムスリップ森鴎外』の続編に当たる作品。といっても、この作品だけを読んでも大丈夫だと思うけど。
『タイムスリップ森鴎外』は、過去から現代にやってきた森鴎外がその変化に戸惑いながらも、現代に順応して行くというのがコミカルに描かれているのに対し、今作は序盤から目的・悪役がハッキリとしていてその妨害と跳ね除けながら明治維新へと導いていく。作中の期間が長い、ということもあって『森鴎外』のような時代が違うことへの戸惑いの場面は少なく、変わりに悪役によってハチャメチャにされた時代をどう直すか…といのが主題となっている。そのため、シリーズではあるんだけど、雰囲気はかなり違うように感じた。
『邪馬台国はどこですか?』でも触れられた「明治維新の黒幕」を巡る謎…とも言えないことはないんだけど、素直に明治維新を舞台としたエンターテインメント作品として考えれば良いんじゃないかと思う。
とりあえず、一言。「ああん」(ぉぃ)
(05年10月6日)

BACK


タイムスリップ釈迦如来
著者:鯨統一郎
不良少年更正のためのダイビングスクールを主催する吉野は、釈迦の教えを強く信じていた。そんな彼のところで預かることになったのは、「タイムスリップして明治維新に行ってきた」と主張するうららという少女。うららの事を嘘吐き、と言いながらもインド洋に卒業試験に来た吉野だが、そこで古代インドへタイムスリップしてしまう。しかも、そこで出会った釈迦は、オカマだった…。
『タイムスリップ明治維新』の続編に当たる作品。
うん、前作『明治維新』の時もそうだったけれども、今回はさらに「ミステリ」色が薄れて、「歴史」を題材としたエンターテインメント色が強くなった気がする。『明治維新』は、歴史を元通りに直し、無事、明治維新を達成する、という目的だったのに対し、今回はオカマの釈迦を助けながら、仏教を世界宗教へと発展させる、というのが目的。ただ、辻褄合わせが目的で、一応は史実通りに持っていく『明治維新』に対して、今回は史実以上のところまでいってしまう。中国まで行って老子と超能力合戦、ギリシャまで行ってソクラテスと演劇合戦。古代、ということで資料が少ないこともあるのだろうが、それにしてもやり過ぎと思えるくらいに思いきった展開になっていく。
その中で、資料に残された言葉の意味であるとかの解釈などがあって、「なるほど、こういう見方もできるな」みたいな部分がある。ただ、ノリが上に書いたような感じなので、それが合うかどうか。その辺りがポイントかな?
(05年11月26日)

BACK


タイムスリップ水戸黄門
著者:鯨統一郎
元禄十年。徳川光圀は、狼に囲まれ、自分の放漫な領地経営を悔いながら最期の時を向かえつつあった。そんな時、未来人に助けられ、タイムスリップして21世紀へ。そこへ、湯沢へハイキングにやってきた麓うらら達と出会い…。
問「この作品を楽しむにはどうしたらいいのですか?」ヒント「細かいことを気にしない」…まったくその通り(笑)
鯨統一郎氏のタイムスリップシリーズの第4弾。今回は、水戸黄門が現代にやってきて…という話。そういう意味では、シリーズ第1弾の『タイムスリップ森鴎外』に近い。
これまでのシリーズだとタイムスリップしていった先の時代をおかしくしないように辻褄を合わせるとか、そんな感じで歴史ネタが多かったのだが、今作はその部分はそれほどない。徳川光圀という実在人物が登場しているので多少はあるのだが、結構、アバウト。また、タイムマシンの中で学習してきた、という設定になっているので、ギャップに戸惑う…なんていうのもあまり無い。
で、替わりにあるのが、時代劇ばりの活躍。本物の徳川光圀が、うらら達と出会ってイジメを解決したり、自殺者を止めたりし、最後にはそっくりな大臣と入れ替わって政界汚職までぶった切ってしまう。ドラマのような展開が何とも痛快。
気になった点と言えば2点。まず、シリーズ4弾ということで、結構、それまでのシリーズの内輪ネタが多い。この作品だけで読むのはお勧めできない。もう1点が、政治だとかに関することが、結構、説明文の連続みたいになっている点。また、ちょっとその思想が一方的になっちゃっているかな? というところ。この辺りが「気にしない」でおくべきところなのだろうが。
でも、シリーズらしい安定したおもしろさがあった。
(07年2月21日)

BACK


九つの殺人メルヘン
著者:鯨統一郎
9編を収録した連作短編集。
作品のパターンは基本的に全て一緒。日本酒バーのマスター、常連の刑事・工藤、心理学者・山内。この3人の「厄年トリオ」が雑談をする。すると、雑談はやがて現在、巷を騒がせている事件の話へ。容疑者はそれぞれ、鉄壁のアリバイを持つ。ところが、これまた常連の女子大生・東子が童話の解釈を交えながら事件を解決へと導いていく…と。
ということで、舞台がバーである、ということ、さらに物語を独特の解釈で捉えてみる、という辺りが、著者のデビュー作『邪馬台国はどこですか?』と雰囲気は似ている。殺人のトリックとしては「うーん…?」というところもあるけれど、それはそれで良いだろう。
ただ、この作品、むしろ、評価を分けるのは、「厄年トリオ」による「雑談」の部分じゃないかと思う。日本酒に関する薀蓄、昔のテレビ番組やら芸能人やら何やら…。こういう話題が続き、中には、ページ数の半分近くになるものすらある。これを楽しめるか否か、に掛かってくるのではないだろうか? 面白いと思えるならば良いが、そこが退屈に感じると、正直、読むのが辛いと思う。そういう意味で、かなり人を選ぶ作品のように思う。
(06年2月16日)

BACK


すべての美人は名探偵である
著者:鯨統一郎

歴史学者の早乙女静香は、沖縄でのフィールドワークの最中、殺人事件に巻き込まれてしまう。被害者は歴史学者の阿南。数日前、テレビ番組で静香が大喧嘩をした相手であり、静香は警察に容疑者として逮捕されてしまう。証拠不充分で釈放された静香は、偶然知り合った桜川東子、弟子の三宅亮太と共に真相を追う。キーワードは、ある童謡。
…うーん…(苦笑)
『邪馬台国はどこですか?』の静香と、『九つの殺人メルヘン』の東子の共演っていうのがこの作品のセールスポイントだけど、逆にいうと、それだけだな…って感じてしまった。言っちゃ何だけど、ミステリーとして見ると、酷いわ、これ。
鯨作品の特徴でもある歴史の新解釈。この作品では、ある童謡の解釈になるわけだが、これはまぁ、こんなものだろう、という感じ。ただ、それ以外が何とも…。
何が気になったか、というと、証拠固めも何もなく、ただただ全てが憶測の上に憶測を重ねる形で進んでしまう点。『九つの殺人メルヘン』のような、安楽椅子探偵であるのならば、まだそれは理解の範囲内なのだが、実際に現地を訪れる形でありながらも全て憶測だけ。しかも、それが全て正解でした…っていうのでは辛過ぎる。
あくまでも私個人の感想なのだが…静香って魅力的なキャラクターなのだろうか? 謎解きの殆どは東子の仕事になっているし、作中の静香といえば、ただ高慢でキレやすいキャラクターという印象しか私は受けなかったのだが…。『邪馬台国はどこですか?』のように敵役…というか、やられ役としてならば、光っていると思うのだが…。
どうも、私にはあまり評価できる作品とは思えなかった。
(06年4月13日)

BACK

inserted by FC2 system