ダックスフントのワープ
著者:藤原伊織
(文庫版は)『ダックスフントのワープ』『ネズミ焼きの贈り物』『ノエル』『ユーレイ』の4編を収録。
藤原伊織作品と言うと、直木賞受賞作である『テロリストのパラソル』を始めとして、いわゆるハードボイルド作品と言う趣だ。勿論、登場人物の葛藤であり、悲しみであり…というものが描かれているわけだけど、やはり純粋にエンターテインメント作品としての趣が強いと思う。しかし、ここに収録されている作品は全く趣が異なる。
この4作、それぞれ主人公は、何か達観した雰囲気を漂わせる人々(『ノエル』はちょっと違うかな)。そして、そんな主人公達は、独特の状況の中、また実に独特なやりとりを行う。そして、そんな彼らに訪れる「消失」。しかし、それすらも淡々と受け止めてしまう。この雰囲気が何とも言えない味わいを持っている。
私の読んだ本を見渡して頂いてもわかる通り、私が読む本は、エンターテインメント小説が多く、いわゆる「純文学」と呼ばわれるタイプのものは少ない。恐らく、この書も、「藤原伊織氏の著書」でなければ手にとっていなかったと思われる。そういう意味で、非常に貴重な体験だった…。と同時に、こういう作品を読みなれていないが故に、何とも稚拙な感想になってしまっているのが、実にもどかしい…。色々と思ったことはあるのだが…。
(06年2月18日)

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シリウスの道
著者:藤原伊織

大手広告代理店の副部長・辰村。そんな彼の勤める部署へ名指しで、大手メーカーの関連証券会社のCM競合の仕事が入る。辰村は、訝しみながらも、その手配をすることに…。そんな時、20年以上前、ある秘密を共有し、全く別の道を歩んでいた明子から、その秘密を知っている、という脅迫状が届いたという知らせが舞い込む…。
この作品、これまで読んだ藤原作品とは大分違っている、という印象がまず第一である。これまでの作品は、まさにハードボイルドという感じである。この作品にもその要素はある。あるのだが、むしろ中心は、広告代理店を舞台とした企業小説、組織を舞台とした作品という印象が強いのだ。競馬好きで、酒飲みで決して身だしなみに気を使っているとも言えない主人公・辰村。現役閣僚の息子、という縁故採用でボンボンと揶揄されながらも勉強家でどんどん吸収していく戸塚。辰村の上司で、果断な決断をする一方で家庭に悩みを抱える女性部長・立花。仕事中にデイトレードをしていて、以前の職場を追われた、という派遣社員・平野…。こういった面々が実に生き生きと描かれ、彼等を中心にして広告の企画を進めていく。その途上には、社内での対立あり、プレゼンのための教育あり…と実に興味深い。横山秀夫氏の『クライマーズ・ハイ』は、新聞記者だった横山氏の経歴が強く生きた作品だと思うのだが、本作も電通社員であった藤原氏の経歴があってこその作品だと思う。
と、広告代理店の物語と同時進行するのが、辰村たちが過去に持った秘密を巡る物語。こちらでは、藤原氏の代表作『テロリストのパラソル』との繋がりが用意されていたりとサービス精神も旺盛だ。
ただ、ちょっとこの「過去の秘密」を巡る物語は弱いかな? という感じがする。こちらの方向は、ひたすらに偶然に頼った形での謎解きのように感じられて不自然さが残った。また、広告の方の物語も終盤、ちょっと忙しく感じた。「過去の秘密」に関して、ちょっと弱かっただけに、そこの分、会社での仕事の終盤の方を強化してくれた方がスッキリしたんじゃないかと言う感じがした。
ただ、余り知られていない広告代理店の仕事の内実、なんていう興味も含めて楽しんで読むことができた。

最後に、どうでも良いのだが、作中、競馬に関する話が出てくるのだが、当時の様子だとかが良くわかるだけに、「確かに、有馬記念でシンボリクリスエスは買えたけど、2着のタップダンスシチーが取れなかったんだよなぁ…」とか思いながら呼んでしまった。どういう楽しみ方なんだか…(笑)
(06年7月8日)

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ダナエ
著者:藤原伊織
個展の最中、作品が切り裂かれ、破損した。画家・宇佐美は、それほど気にせずに済ませようとするが、そこへ犯人を名乗る少女から電話が…(『ダナエ』)。ほか、計3編を収録した短編集。
うーん…なんだろう…全体的にちょっと低調かな? 収録されている3編とも、きっちりとまとまっているし、どんでん返しあり…と文句はないのだけれども…なんか、それ以上、という感じもなかった。
例えば、『まぼろしの虹』なんかは、女子サッカーで活躍する姉の印象的な姿から両親の離婚、そして、その結婚相手の抱えているもの、そして…と、次々と場面が移ってしまって、何かどこを中心に描いていたのか…が、よくわからなかったし、表題作『ダナエ』にしても、こぎれいにまとまりすぎているかな? という感じが先にたってしまった。うーん…。
その意味では、『水母』が一番好きかな? かつての恋人の危機を知ったクリエーター・麻生。かつての恋人のことを思いつつ、終わったこと…とはいいながらも…。広告業界、さらに過去の思い出を持った男の決断…と著者が得意とする作風であることも影響しているのだろうが、本作に収録された中では一番好き。
なんか、色々と期待しすぎてしまっているんだろうか?
(07年5月10日)

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天帝のはしたなき果実
著者:古野まほろ
姫州にある広大なキャンパスを持つ学園・勁草館高校。吹奏楽部に所属する古野まほろらは、顧問である瀬尾の指導の元、一生懸命だか何だかで青春を謳歌していた。コンクールで演奏する曲目は『天帝のはしたなき果実』。それは、20数年前に一度、題材となり、そして生徒が死んだ因縁の曲。そして…。
第35回メフィスト賞受賞作。
えっと…読み終わった瞬間、思わず。「よっしゃー読了したー!!」とガッツポーズをしてしまった(笑) いやー…長かった。
一段とは言え、新書で814頁という大ボリューム。なかなか起こらない事件(笑) 独特の文体。それらが相俟って、読むのにかなり骨を折った。
そんなところでもお分かりいただけるかと思うが、作品としては、相当に盛り沢山。首を狩られて殺されていた生徒。学校の七不思議に、4つの絵、4つの像。暗号…密室状況で起こる殺人。なんか、学園ミステリーとか、そういうものを盛り沢山に詰め込み、さらに様々な薀蓄やら、青春物語だとかを加味したような印象。読んでいて、よくぞこれだけ詰めこんだ、と色々な意味で感嘆する。
そして、作品の世界観と、最後に明かされる真相にも感嘆。もともと、現代日本を舞台としているものの、爵位が残っているとか、軍があるとか、そういうパラレルな設定は序盤でわかるのだが、それらが終盤、怒涛のように意味を為してくる。まさか、こういう結末に来るとは…。流石に予想がつかない。というか…物凄い大風呂敷へと発展するからなぁ…(笑) この広げ方は、清涼院流水とか、そういうものを思わせてくれた。
と、色々と書いてきたんだけど、それ以上に本作を特徴づけるのは、その独特の文体じゃないかと思う。色々な意味で、この独特の文体が、読む上でポイントになると思う。ウンザリするほどにルビが振られた言葉が次々と現れ、しかも、いきなり大勢の人々が戦争のように語り合うシーンからはじまり、度肝を抜かれる。正直、この時点で挫折しかけたし(笑) 文体は全く違うのだが、舞城王太郎作品を最初に読んだとき並に文体に戸惑った。
とにかく、文体、そして、この結末…と人を選ぶことだけは保証する。とりあえず、買う前に10頁、20頁くらいは、立ち読みした方が良いよ、と忠告しておこう。
…すっげぇつかれた…が最大の感想だ(苦笑)
(07年3月13日)

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天帝のつかわせる御矢
著者:古野まほろ
頚草館の事件から半年。満州へと生活の拠点を替えていたまほろは、開始された戦争の影響を受け、満州から非難することに。同行した二条警視正によって案内された脱出の足は、豪華寝台車・環大東亜特急『あじあ』。迎えに来た柏木との旅となるまほろだったが、修野まりからある指令が…。そして、事件が…。
うーん…前作『天帝のはしたなき果実』同様、分厚い作品なわけだが…不思議なことに、前作ほど読みづらさを感じることは無かった。これは、前作を色々と我慢して読んだ結果、耐性がついたのか、それとも、著者の文章そのものがこなれてきたのか…。多分、両方だとは思うが(とは言え、相当に独特の文体なので、初めて読む人には辛いと思う)。
で、本作は、走る列車の中で起こる殺人事件。バラバラにされた遺体。限られた容疑者でありながら、わからないことも多い。そんな中で、再び起こって…となり、終盤には一大イベントともいえる探偵役たちによる推理合戦。かなりロジカルに推理が展開していくし、また、そのやりとりは楽しい。
とは言え、やはり、この作品は、ただじゃすまない。メインとなるのは、先に述べた事件だと思うのだが、その事件が起こるまでそもそも3分の1くらい、延々と日常描写がつづられる。また、事件そのものの姿が見えたあと、再び、この作品の独特の世界観を巡る物語へと繋がっていく。このあたりは、前作同様といえばそうなのだが…。
うーん…なんだろう…文体などは、全く似ていないのだが、ミステリ的な要素を作りつつも、その独特の世界観を広げていく…という手法は、西尾維新氏の「戯言シリーズ」を思わせるんだよな。こちらの方が、より、その世界観を強くかもし出している、という部分はあるにせよ。
しかし、前作よりも読みやすく感じたとは言え、やはり、この著者の作品を読むにはパワーが要るなぁ…。とにかく、疲れる。ただ、だんだん、その変な魅力を受け入れつつある自分が怖い。
(07年7月15日)

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天帝の愛でたまう孤島
著者:古野まほろ
「島を買ったの」 子爵である修野まりと栄子の言葉もあって、姫州の遥か南の孤島・天愛島へと赴いたまほろたち。「秘宝が隠されている」とも言われるその島で生徒会主催の演劇合宿を行うはずだったが、孤立した島で惨劇が…。
てなわけで、今回は孤島の館で起こる事件っと。絶海の孤島で起こる事件。密室状態であるにも関わらず、その中で起こる事件。消えてしまう犯人・死神仮面と被害者。シリーズの特色でもあるやたらとルビの多い言い回し、脱線の多い話などを振りまきながらも起こる事件そのものは、非常にオーソドックスな本格ミステリの趣。
うーん…しかし、これはねぇ…。とりあえず、読み終わって、このトリックはアリかナシか、で言えば、私は「アリ」に一票を入れたい。個人的にちょっと館の構造とかに戸惑った部分はあるんだけど、読み終わって、論理的にまとめられているし、これはこれで良いと思う。
ただ…本書を手に取ったときに知ったんだけど…これ、『果実』『御矢』と合わせて3部作だったの?(笑) そして、これが3部作の最終作なの? 全くまとまってないんですけど。
…と言うのが凄く残るのは私だけだろうか? 一本の作品としてならば、十分に許容できるんだけど、これで3部作完結と言われてもねぇ…。その辺りの展開がどうなるのか、凄く気になるところ。
(07年11月15日)

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ある日、爆弾が落ちてきて
著者:古橋秀之
『ある日、爆弾がおちてきて』『おおきくなあれ』『恋する死者の夜』『トトカミじゃ』『出席番号0番』『三時間目のまどか』『むかし、爆弾がおちてきて』の7編を収録した短篇集。
収録された7篇は全て、普通の少年と、不思議な少女が出会うという「ボーイミーツガール」作品。そして、それぞれに何らかの形で時間という概念が関わってくる。
いや、これ良いよ、うん。
何というか、短篇らしい短篇とでも言うか。それぞれ、ある意味ではトンデモな特別な設定がある。人間爆弾と出会う表題作であるとか、記憶が退行する風邪がある『おおきくなあれ』とか、一つだけ大きな設定を仕掛けて、その世界に住む普通の少年が出会う物語。設定は特殊なんだけど、決して特殊な人々と言うわけじゃなくて、読んでいて素直に感情移入していける。
1つ1つの話のオチだとかも決して目新しさがあるわけじゃないんだけど、丁寧に描かれていて素直に読了後は「良かった」と思えた。面白かった。
(05年12月18日)

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ヒトカケラ
著者:星家なこ
オカルト研究会…とは名ばかりの部活。俺は、そこに所属する美少女・蓬莱さんに片思いしていた。そんなある日、蓬莱さんに呼ばれた俺は、「なくした私のかけらを一緒に探して欲しい」と頼まれる。そして…。
とりあえず、最初にかましておかないといえないと思うので…このオカルト部…なんてSOS団?(ぉぃ)
さて、読んでいて何よりも感じるのは、「凄く透明感のある作品だな」と言うことだろうか。変な言い方をすると、MF文庫Jで初めて、こういうタイプの作品に出会ったかも知れない、と言う感じ(まぁ、私自身があまりMF文庫Jを読んでないってのは大きいんだけど) 最初に「自分は人間ではない」と言う蓬莱さんの告白があって、その失くした「かけら」探しをするところから始まる物語。ただ、そうは言っても、あくまでも静かにそれぞれのキャラクターの心の動き、想いを綴る。派手な展開はないんだけど、丁寧に描かれていて凄く好感が持てる。
物語は2部構成で、第一部は、神崎輝幸の視点から。そして、第二部で、もう一つの視点から。実質的に、1つの物語を二つの視点で描くために、一つ一つは短めなんだけど、ボリューム的にも、このくらいで丁度良いのではないかと思う。
「欠けた自分」と言うのは、最初は蓬莱さんなんだけど…それぞれが、それぞれ…なんだよね。皆が、その想いを持ち、ちょっとの寂しさと、爽やかさの残る物語。
展開とかは地味なんだけど、良い作品だと思う。
…これ、続編とか野暮なことはやめて欲しいな…(笑)
(07年12月10日)

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ヘビイチゴ・サナトリウム
著者:ほしおさなえ
中高一貫の女子高の屋上から高校3年の江崎ハルナが墜死した。事件の少し前にも、ハルナと同じ3年の美術部員が死んだばかりだった。美術部員で中学3年の海生と双葉は、先輩の死、さらに国語教師・宮坂の噂に興味を持つ。一方、宮坂の同僚・高柳もまた、ひょんなことから調べることになる。そんな時、今度は、宮坂が墜死して…。
もどかしい。ぼやけている。掴みどころが無い。読んでいて、常にそんな言葉が頭の中を行ったり来たりしている。
とにかく、この作品のテーマも関連しているのだろうが、常に物語そのものの輪郭・全体像が掴めてこないのだ。次々と起こる墜死事件。様々な人物の視点が入り乱れ、そこに幽霊であるとか、ある人物への思いだとかが挿入されて行く。読んでいる側は、そもそもそれが事実なのかどうなのかもなかなか判断に困る。基本としては、双葉&海生と高柳という二つの視点で事件の真相に迫って行くのだが、それぞれが重なるようで重ならない。おかげで、両者の発見したピースもなかなか組み合わさらない。そこにもどかしさを感じる。そんな中で、謎自体までもが次々とその形を変えてしまうのだから。
とにかく、この作品のポイントはすべて、このもどかしさ、に掛かっているのではないかと思う。先に、謎そのものが変化する、と書いた。そして、最後には結論もきちんと出る。理論破綻もない。しかし、それでも読者はなにか不安な印象をぬぐいきれないのだ。終盤は、どんでん返しの連続であるし、その上である人物の「辻褄っていうのは、まちがっててもあうんだよ」の一言が効いている。その通りで、何か最後までしっくり来ないままに終わるのである。
このような形の作品、好き嫌いははっきりと別れるかと思う。しかし、意図してこういう作品を、というのであればその試みは成功したといえるのではないかと思う。
(06年10月4日)

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天の前庭
著者:ほしおさなえ
2001年、改装中の高校から白骨遺体が発見された。そこには、刻印の入ったボールペンが一緒に。だが、ボールペンを持っているはずの4人のうち、3人は今も持っており、残りの一人・柚乃は事故から、意識不明のまま。そして、9年ぶりに意識を取り戻した柚乃は記憶を失っていた…。
うーん…同じ著者の作品、『ヘビイチゴ・サナトリウム』を読んだときも思ったのだが、非常につかみどころのない作品という印象。
最初に提示される、柚乃の日記。ドッペルゲンガーであるとか、不可思議な要素は持ちつつも、ごく普通の高校生、仲の良い柚乃、尚、徹、秀人の4人を中心とした日常と、その心情を描いた日記。そこから始まって、柚乃が目覚めたときに話が飛ぶ。そして、そこで描かれるのも、社会人になった3人と記憶を失った柚乃の間で交わされる日常。ミステリーと言うよりも、若者たちの青春小説という趣が強い。その中で次第に露になっていく日記と現実との乖離。そして、宗教、タイムスリップ…などなどといった要素が現れ物語が不可思議な領域へと少しずつ踏み込んでいく。日常だったはずが、いつの間にか霧の中にいるような、つかみどころのない物語になっていくように感じるのだ。
『ヘビイチゴ・サナトリウム』もそうなのだが、最初に謎が提示されて、その解答へ…というのではない、というのがこの著者の持つ特徴のように感じる。どちらも最初は、ごくごく日常的な場面から始まって、どんどんと謎の中へと引きずり込まれてしまう作品。気づくと、何処を目指しているのか、何が正しく何がおかしいのか、すらわからなくなってくる不思議な感覚は、非常に面白い。
それだけに、やや着地点がごちゃつくでるとか、作風そのものに対する違和感、好みは分かれると思うのだが、これはこれで非常に意欲的で応援したいと思う作品ではある。
(07年3月26日)

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モドキ
著者:ほしおさなえ
スーパーのレジでバイトをする私。そんな私はふとしたことで、同僚のマツナガの家で奇妙なモノを見つける。夫と少し距離を感じている主婦。彼女は、あるサイトで小さな人間のようなものの写真を載せたサイトを見つける…。
なんだろう…この不思議な、そして、不気味な感覚は。
人間ソックリ、だけれども、知能は感じられない。アンダーグラウンドでそれは売買されている。そこに惹かれるのは、小さな人間しか愛せないという者。夫にわかってもらえない主婦。かつての自分を忘れられない者…。それぞれ、何か、不足しているような人々…。
実のところ、人間ソックリな存在が何なのか? とか、とか、そういう部分については序盤から明らかにされている。序盤から、多くの視点で物語が展開するのだが、そこがどう繋がるのか? それぞれの物語がどう展開していくのか? が、かえって読めない。これまでの著者の作品でも「とらえどころがない」と言う印象を持っていたのだが、本作でもその雰囲気は健在。
なんとも不気味で、なんとも不可思議。そして、何となく哀しい…。ともかく、この作品でしか味わえない独特の世界観を感じられた。
(07年12月7日)

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自殺するなら、引きこもれ
著者:本田透、堀田純司
良い学校に入り、良い会社に入れば一生安泰。そんな時代は、既に過去のものになっている。学校にも問題は多発している。そのような状況の中、「学校信仰」は捨て、そのような価値観から脱却すべきである。
というのが、内容になるだろうか。
正直なところ、日本に根強く思っている「学校信仰」、そして、その問題点。さらには、学校と言うシステムから外れたほうが良いタイプの人間は存在するし、また、そういう人間もちゃんと認められるようなシステムを構築すべきである…と言う意見には賛成である。私自身、(不登校などにはならなかったが)通っていたかなりどうしようもない小学校、中学校の記憶があることもあって、結構、心情的にも納得できる部分は多い。
ただ…なんていうか、その本筋から外れた部分が多く、読んでいて「?」というのを強く感じた、というのが正直なところ。
例えば、3章。「フリーターでも安心して暮らせる社会を」と言うのであるが、序盤は、細川政権から小泉政権に至るまでの規制緩和政策の話とかが延々と続いて、「それ、あまり関係ないんじゃない?」と思わざるを得なかった。また、4章でも、学校システムから外れても、成功者はいる。というのは良いのだが、延々とエジソンであるとか、スティーブ・ジョブスとかの逸話に費やされてちょっと退屈。無関係では無いとしても、ちょっと頁稼ぎ、と言う感はどうしても残る。
また、2章で「社会が流動化している」として、離職・転職率が高くなったことを示す。それは事実としても、「だから、学校システムに囚われる必要はない」とするのはちょっと違う気がする。確かに流動性は高くなっている、しかし、現在は、だからこそ、スタート地点につくために学校システムがより重要とされる部分がある(同様に、新卒採用の壁とかもある) むしろ、逆に「強くなっている」部分があるのだと思う。また、これは細かいところだが、いじめ問題などについても「現在のいじめは巧妙化して…」とか、ちょっと根拠が薄いと感じざるを得ない部分も散見される。
タイトルからのコアの部分に関していえば、賛同できるとしても、全体的に散漫で、ちょっとまとまりに欠ける、と感じる部分が多かった。
(08年1月11日)

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若者殺しの時代
著者:堀井憲一郎

「若者だから」という理由で得をする時代がある。「若者だから」という理由で損をする時代もある。現在は、「損をする」時代だ。ターニングポイントは、1980年代、83年にあった。80年代に何があったのか、ずんずん調べてつきとめた。
うーん、なかなか面白かった。
1980年代、それまでは「祭り」の口実でしかなかったクリスマスは、恋人同士のイベントとして作り上げられて行く。性風俗が女性に開放されていく…そして、若者の囲い込みが進んでいった…。と言ったことが、著者の実感などを含めて描かれて行く。
個人的に面白かったのは、マンガを中心にしてサブカルチャーの変遷を描いた4章かな? 私が「オタク」なもんで(笑) 戦後、「子供」のものとして始まったマンガが、60〜70年代に若者の文化、表現方法とされながら、80年代の空気の中で「若者」像から乖離しはじめ、89年の宮崎勤事件によって決定的になる。現在でもその流れを感じるだけに、なかなか面白く読めた。
ただ、個人的に難点と思ったのが2点。まず、これは新書という媒体上仕方が無いのだけど、調べた、というデータだとかをもっと開示して欲しかったな、という点。著者の個人的な経験論みたいなところに頼る部分もあって、もっと数字の裏付けだとかがあれば面白かったのにな、と思うところがいくつか。もう1つが、終盤の話の展開がちょっと唐突かつ強引だな、という点。その辺りがちょっと残念。
(06年5月2日)

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テレビゲーム教育論
著者:マーク・プレンスキー
翻訳:藤本徹
長い間、テレビゲームは「悪いもの」とされてきた。けれども、あなたが信じているように悪いものではなく、良い面も沢山持っている。親や教師に送る「ポジティヴな」ガイドブック。
本書は、まずテレビゲームについての懸念を示す親に対し、それらの原因となる害悪論の問題点、それが発生するメカニズムを示し、続いて、実際にゲームをやっているときに、プレイヤーがどういうことを考えているのか、どういう長所があるのかを示す。そして、最後に、親や教師に対して、それらを踏まえた上での付き合い方について提案をする、と言う形の構成をとる。
読んでいて、まず最初に感じたのは、著者(翻訳者も)は非常にゲームについて詳しい、勉強している、と言う点である。具体的なゲーム名だけでなく、ゲームをしている際のプレイヤーの考え方などは実際にゲームに親しんでいる私からすれば「うん、そうそう」と思えるような部分が多いし、それを上手く文章で表現することが出来ていると思う。
本書の場合、アメリカで発行された書の翻訳と言うことで、日本とは事情の異なる部分は多くある。例えば、本書の中で、比較的オンラインゲームに関する記述が多いのだが、日本においては(プレイヤー数が増えているとは言え)決してゲームの主流とはいえない。また、具体的なゲームタイトルが示されているのだが、アメリカの作品のため、日本人にはちょっとイメージしづらい部分もある。ただ、その辺りを差し引いても、本書を読んで参考になる部分は多いだろう。
親の世代が「ロック音楽」などを通じて新しい価値観、考え方、文化観を作り出していたように、子供たちもまた、ゲームを通して独自の文化を作り上げていること。そして、それをやると頭がおかしくなる、などと言うのもロック音楽に言われていたことと同じである。と言うのは、非常に理解しやすいのではないだろうか? ゲームを中心として、その周囲の世界に興味を持つ動機付けになることも多い、だとか、その世界に親や教師が自ら飛び込んで行くことで、子供とのコミュニケーションを図ることも出来るし、また、それを利用した(これまでより良い)教育の機会を作ることも可能である、と言うのは日米を問わずに適応できるだろう。
上の本書を通してのメッセージ自体もそうであるし、また、細かい部分でも日米関係なく言えることが多い。例えば、害悪論者は、自らゲームをしたことがなく、ゲーム以外でも起こりえる些細な部分を強調していることが多い、なんていうのは、日本の「ゲーム脳」「脳内汚染」などに対してもそのまま当てはまる。また、問題視される「残虐ゲーム」なんていうのは、実際のゲームのごくごく一部に過ぎず、また、そういうゲームでも使い方次第で色々と役立つ、と言う辺りにも素直に納得できるところである。
本書の場合、最初にも書いたように「ポジティブ」な面を強調するあまり、「どちらともいえない」と言うものをやや強引に「良いこと」と結論付けるような部分がある(害悪論は、同じものを、悪い部分と強調しているが)。新しい文化が出来ているのだから、それを理解し、それにあわせることで効果的な教育が出来る、と言うのは賛同できるが、それまでのものをただ「古く、あまり良くないもの」としてしまうのはちょっと抵抗を覚える。
その辺りについては少し、異論はあるだろうが、ゲームの持つ可能性、ゲームと付き合い方に悩む親、教師などと言った人にとっては十分なヒントになるのではないかと思う。
(07年12月5日)

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スター選手はなぜ亡命するのか?
著者:マーティー・キーナート
タイトルだけを見ると、日本のスポーツのスター選手が流出する仕組みとかを描いた書のように思えるけど、内容の中心は日本のプロ野球(プロスポーツ)の問題点を指摘した書といえる。
ここに書かれていることをまとめると、日本のプロ野球に関わる者の殆どが素人ということになる。わずか数分の試験だけで採用されてしまう審判、地位も低ければ専門の教育を受けたわけでもないトレーナー、元スター選手であるというだけで、指導力などは一切問われずに就任する監督、親会社から派遣されてきただけの球団代表に、殆ど名誉職としか言いようのないコミッショナー、そして、そのスポーツもロクに知らない芸能人が喋るスポーツ中継…。この書が発表されたのは97年の末だけど、現在でもここでされている指摘は殆ど改善されていないように感じる。
この書の指摘では、殆どをアメリカ流にすべき、としている。それに関しては、アメリカが全て正しいのか? アメリカ以外の経営も見るべきではないのか? などと疑問を感じる部分が無いわけではない。ただ、概ねのところでは賛成できる。そして、この書で扱われているのはプロ野球(プロスポーツ)なんだけど、トレーナーなどの問題は、我々、一般の人間にも関わってくることじゃないだろうか? 学校の部活動などでは、全くそのスポーツの知識も無ければ、トレーナーの指導も受けたことの無いような人間が、指導者と呼ばれ、誤った練習を生徒たちに強要している事はたくさんあるのだから。
そういう部分を考えるきっかけとしても意味があるのではないだろうか?
(05年9月7日)

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