援公少女とロリコン男
著者:圓田浩二
90年代後半に一気に広まった「援助交際」ブーム。最近は新鮮味がなくなったためか、あまり言葉としては聞かないが着実にそれは日常の風景に溶け込んでいる。自らの性的な価値を知り、売り込む少女たちと、その価値を求める男性たち。このロリコン化を探り、日本における性のあり方とコミュニケーションの作法を探る。
…というのが、この書の内容紹介になるのだろうか。全4章構成で、1章で「援助交際の歴史」とでも言うべきもの。2章で、実際にしている少女たちへのインタビュー。3章は、反対に買う側の男性へのインタビューと少女を買う理由の考察。4章で、日本における「ロリコン」化の考察という形になる。
なんていうか…全体的に見ると、「イマイチ根拠が薄いな」という印象を持った。基本的な法整備や、産業としての変遷を辿った第1章や、第4章の「少女という概念の誕生」などについては良いのだが、それ以外がどうも根拠が薄いのだ。
本作で一番、頁を割いているのが、少女と男性へのインタビュー(全部で200頁あまりのうち、インタビュー部分が80頁ほど)。その中で、それぞれがどういう考えを持っているのか? どういう形で、そういうことをするようになったのか? などが出てくる。個人個人の話は面白い。…面白いのだが、できれば、全体で何人に取材し、平均がどのくらいだったのか? とか、そういうことも記して欲しかった。インタビューの回答に対し「私の取材でも同じような傾向があった」とか、そういうものでは、説得力に欠けるといわざるを得ない。また、男性の側については、僅か1人であり、しかも、その男性は社会的な成功者で、していることも「一般的な買う者」とは言い難いだろう。それを根拠にされても…という感じである。
第4章の「少女という概念の誕生」から始まり、ロリコン・バッシング、援助交際ともに「少女幻想」に支配されている、などと言った指摘は実に面白い。が、そこにオタクを絡めた部分などを考えると「?」になってしまうし(少女売春を主にしているのはオタクか?)。
部分部分での面白さは認めるものの、根拠の薄さなども含めて、どうもイマイチ地に足がついていないように感じる。
(06年9月5日)

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退化する若者たち
著者:丸橋賢
私は医学について詳しいとは言えない。だが、読んでいておかしい、と感じる部分ばかりが目に付いてならない。
著者の言う、歯の噛み合わせの悪さというのが、歯のみならず、骨格のゆがみなどに通じて影響を与える、という意見については「有りうる」と思う。だが、噛み合わせの悪さが、無気力に繋がり、フリーター、ニート問題の原因となり、さらに凶悪犯罪を引き起こすことになる、という繋がり方をするに至っては全く同意することができない。
著者の言う理屈が正しいかを証明するには、いくつものステップを踏んで示す必要があるだろう。まず、「無気力状態の若者が増えている」ということを示す必要性。さらに、ニートやフリーターの増加の原因が「無気力状態であるから」ということ証明する必要性。さらに、歯列の問題と無気力状態の因果関係の証明の必要性…などである。しかし、それが為されたとは到底言い難い。
まず、フリーターたちが無気力だから、という説明を覆す資料は多くある。例えば、フリーターに人々に取ったアンケートによれば「正社員になりたい」と考えている人々が大多数であった、というもの。それでありながらフリーターであるのは、意欲の問題ではなくて、就労状況の問題である。また、ニート増加などに関しても多くのそのような反論は多い。
また、無気力が増えている、という著者の意見の資料には、高校生の勉学などに対する意識の国際比較が用いられている。しかし、そもそも全員が高校に通える日本とエリートしか通えない中国などを比較することがナンセンスであるし、時系列調査でないこの調査で「増えている」というのもおかしな話である。また、勉学に対する意識調査が低かったから、即ち無気力というのもおかしな話だ。
さらに、無気力の原因が歯列の問題、歯列に問題のある若者が多い、とする根拠は、著者の診療所に来た人々の多くがそうだったから、というのは笑うしかあるまい。著者は、まず歯科医である。しかも、著者はこれまでにも著書などで無気力の原因は歯列の問題だからだ、などと煽っていた人物である。自分でそのような人々を呼び寄せておいて、それを根拠に問題の多い人々が増えているとは一体何なのだろう?
もうこれ以上書く必要もあるまい。教育論などを色々と語ってはいるが、著者のこのような我田引水な論法だけで嫌気しか沸いてこない。悪口をこれ以上書くのも、事故嫌悪に陥るので最後に一つ挙げて終わりにしよう。
著者は、若者が「退化した」ということで、多くの場面で若者と「まだマシ」な団塊の世代を比較している。しかし、「退化が原因で起こる」はずの凶悪犯罪の件数は人口比で比べても、団塊の世代の方が遥かに多いのである。これだけでも崩れているとは言えまいか?
(06年6月18日)

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滅びのモノクローム
著者:三浦明博
骨董市で買った釣りのリール。そのオマケとして貰った柳行李に収められたフィルム。コピーライターである日下は、そのフィルムを使ったCM作成を思いつく。一方、実家からそのリールを持ち出し、売ってしまった花は、その回収を祖父に頼まれる。
テンポそのものは悪くない。軽いといわれればそれまでだが、サクサクと読み進められる、ということ自体は十分に武器だろうし。ただ…どうも、作品全体としてのバランスが悪いというか、テーマそのものが不鮮明というか…。
始めは釣り好きのコピーライターによるCM作りから、広告業界の話のような形でありながら、話が進むうちに戦争(の批判)へと移り変わって行く。しかしながら、謎解きには魚釣りも…と様々な分野に渡る。勿論、それを料理することだって可能なのだろうが、上手く料理されていない感じだ。結果、すべてが取ってつけたような感じで、不鮮明な印象が強く残ってしまった。
(05年6月11日)

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死水
著者:三浦明博

世間から離れ、川の番人として暮らす早瀬。運動の中心人物である大地主・大道寺の元で活動をしていたのだが、ある日、大道寺が失踪する。さらに、川を囲む森で火事が発生し、焼け跡から死体が発見される。
これは、前作『滅びのモノクローム』でも感じたことなのだが、三浦氏の作品は、自然などの描写を大事にし、ゆったりとした雰囲気で物語を進めている印象を受ける。その中で、この作品のメッセージとでも言うべき、自然と人間の関わりを描こうとしていることは理解できる。
ただ、それが成功しているのかと言うと、疑問である。そのゆっくりとした雰囲気とハードボイルド作品としての流れがどうもかみ合っていないように感じる。緊迫感に欠けているとでも言うか…。また、まさに唐突とでも言うべき形で謎解きが始まってしまう辺りもちょっと苦しい。
個人的には、この独特の作風は面白いと思う。面白いと思うだけに、それを活かす展開などを見つけて欲しい。
(05年6月21日)

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サーカス市場
著者:三浦明博
いかがわしい風説には事欠かない飲み屋街・サーカス市場。堅気の人は決して近寄らないその一角で起こる出来事を記した連作短編集。
うーん…。なんか、妙な魅力があることは確か。毎回登場してくるオヤジ・石神や、千春と深春という双子を始めとして、何とも怪しげな雰囲気そのものは悪くない。怪談のように見せておいて、ギリギリで現実世界的にとどまっている、というようなバランスも個人的には嫌いじゃない。この何とも妙な魅力、というのが、この作品の一番良いところなのかな? とは思う。
ただ、何と言うか…コピーから受ける印象と違って、別にそこまで突飛な場所、という感じはしないし(突飛になっていれば、今度は、先に書いたバランスがおかしくなるわけだけど)、一度入ったら戻れないような場所でもない。また、同じ人物が出てくる、とは言え、毎回毎回出てきて同じような役割って言うのは、逆に狭苦しさを感じてしまうのだが。また、この作品に限らず、毎度毎度、釣り道具を小道具にしてしまうのはどうなんだろうか? 釣りがテーマでもないのに、そのようなものを使われても…と感じてしまう(『面妖屋』に関しては構わないと思うが)。
個人的に、前2作よりは好きだけど…。
(06年4月19日)

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罠釣師(トラッパーズ)
著者:三浦明博
渓流釣りに出かけた木之下がふとしたアクシデントで泊まる事になった温泉宿。そこで、彼は飄々とした老人・伸介、その孫娘・繭子、いわくありげな女性・治美と出会う。3人の頼みで近くにある願掛けの岩まで連れて行くことになる木之下だったが、その縁から、ある計画に参入して行くことになる…。
うーん…、正直、辛いなぁ…。ちょっと厳しい評価の連発にならざるを得ない、かな。
まぁ、コンゲームとして考えれば、一応の辻褄はあっている。最初は意気投合していながら、少しずつ仲間に対して疑心暗鬼を抱くようになって…なんていう流れも悪くは無い。多少、わかりやすいとは言え、どんでん返しも良いだろう。けれどもねぇ…。
まず、物語の根本的なところで、ご都合主義と感じられる部分が多い。例えば、ターゲットに対して、主人公・木之下は偽名を名乗っているのに、その前に妨害する者がでて思いっきり「木之下さん」と呼んでいる。普通、その時点で気付かないか? 「商売場の名前」で納得するか? これは一例だけど、どうもねぇ…という部分が多い。
そして、「釣り」。いや、相手を騙して…っていうのと、魚をだまして釣るフライフィッシングに通じる部分がある、とは思うんだ。思うんだけど、一々釣りの場面を(長々と)入れる必要があるのだろうか? 正直、それでテンポが悪くなっている、と感じるから余計に。
著者の釣りに対する愛は通じるんだけど、それがちゃんと意味を為さないのでは辛い。
(06年9月8日)

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ファスト風土化する日本
著者:三浦展

相次ぐ大型ショッピングセンター、チェーン店、ファミレスの地方進出。それによって、それまでの中心市街地の小売店などを駆逐し、全国一律の風景が広がっている。
そんな情況を作り出した「列島改造論」を端緒とする国の政策、その結果として、地方の方が社会体験や多様性のない世界となっている、という辺りの流れは理解できる。

だが、それ以外に関しては首を傾げたくなる部分が多い。
序盤は、地方都市と犯罪の関係を述べているのだが、かなり恣意的なデータ(及び分析)が用いられている印象。例えば、佐賀のバスジャック事件の犯人について「受験の失敗」は「どうでも良い」と切り捨て、佐賀の「閉塞的な状況」と高速道の整備による「東京への心理的な距離の近さ」が原因では?というような分析はいかがなものだろう。
そもそも、「地方」「地方」とは言うが、「地方」の定義が良くわからない。先ほどの佐賀、さらには長崎、宇都宮、前橋、小千谷、和歌山、佐世保、高崎・・・などなど、様々な土地が出されているが、東京の通勤圏としてのベッドタウンである宇都宮、前橋、かなり独立している地方都市である佐世保や長崎、さらに人口5000人程度の青森県柏村まで全て同列に「地方」である。これらを全て同一に語ってしまう心理が理解できない。

また、4〜6章で地方の情況を説明しているわけであるが、結果、6章後半〜7章で行われる改善策、というのは机上の空論に過ぎまい。大規模ショッピングセンターをやめて、商店街を復活させれば街は元に戻る、などといっているのであるが、その実例は吉祥寺や高円寺である。これらに活気があるのは、小さな店舗が多いことと人口が多いことによる相乗効果である。そもそもの人口が少ないから、、そのような商店街の活気がなくなり、大規模ショッピングセンターが流行るのである。

地方は地方の伝統を守れ、というこの書の主張は一見正論に見えるが、著者は元パルコ情報誌の編集者として、都市のものは素晴らしいというような価値観を発しつづけた人である。地方の価値観を劣ったもののように示すのは、列島改造論のような政策を推進しているに等しい。そのような事は一切反省もせず、都市化を目指す地方批判をする著者は恥知らずと言えよう。
(05年1月15日)

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検証 地方がヘンだ!
著者:三浦展

以前、『ファスト風土化する日本』を読み、違和感を感じ、その続編(?)とでも言うべき書籍を見つけたので手にとってみることにした。
結論から言えば、殆ど読む価値は無かった、というところだろうか。
内容の殆どは、『ファスト風土化する日本』と同じである。違いといえば、写真、グラフ、大きな文字、などを使ってセンセーショナルに、センセーショナルに煽りたてていることと、鈴木浩氏、松原隆一郎氏、永山彦三郎氏、山田昌弘氏へのインタビューが載っているという部分くらい。
久しぶりにこの書を読んでみて、前回の違和感をぬぐうことは出来ず、むしろそれを増幅させる結果となった。例えば、自動車社会になったのが悪いことのように描かれているのだが、そもそも自動車社会化以外に地方に選択肢はあるのだろうか? 確かに、電車、徒歩、バス…など、移動手段に多様性がある方が良い方が理想なのは確かなのだが、そもそも人口数千人の町などで、仮に自動車社会化していなくても多様性が作れたのだろうか? 効率化、コストダウンなどが各所で叫ばれ、少子高齢化・過疎化が進む中、そのような町を通っている赤字路線は次々と廃止されているだけである。確かに、自動車社会化により、それが促進された部分はあるかも知れないが、なければ解決していたなどとは言えない。

三浦氏は「地方の東京化」「郊外化」を批判し、地方の持つ特色を生かせ、といっているのであるが、私は三浦氏の視点には大きく欠けている点があるように思える。それは、地方がなぜ「東京化したいのか?」という点である。「列島改造論」などからの流れはあるにしても、地方が「東京化したい」と思うことがなければ、そのような政策も無かったはずである。
で、その「東京化したい」という考えはどこから生まれたのだろう? それは「都会こそ素晴らしい」というような価値観ではないだろうか。著者はパルコの情報誌の編集をしていた、というのであるが、そこで著者は何を書いていたのだろう? 「東京にあるパルコのものは素晴らしい」「田舎のものはダサい」などとやっていたのではないのか? 私は地方出身であるが、マスコミ情報などの殆どが「都会」が基準になり、「地方=ダメ」みたいな形になっていることに悔しさ、羨ましさを感じたものである。三浦氏の主張では一方的に、地方が悪のように描かれているのだが、そのような価値観を生むような情報を発信しつづけた側の責任はないのだろうか?
松原氏のインタビューの中に、「地方の復興には東京の目線が必要」とあるわけだが、著者の場合、「東京の目線だけ」で全てを語っているように思えてならない。
(05年7月24日)

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大人のための東京散歩案内
著者:三浦展

この書は、タイトルの通り、東京の様々な「街」の案内である。「大人のための」と付いているように、どことなく落ちついた、ノスタルジィを感じさせる街が中心である。具体的に述べるなら、本所・深川、蒲田、神楽坂、阿佐ヶ谷、目白、赤羽、本郷・小石川、高円寺、西荻窪、吉祥寺、代官山・恵比寿・中目黒となる。中央線と大江戸線の沿線で全部済むじゃないか…とかはきにしない、気にしない。
これらの街を見渡すとわかるのだが、多くの街に同潤会アパートがあったりすることからもわかるように、明治・大正時代からの街並みを残す地域が多い。または、吉祥寺や高円寺のような雑多な街というか…。確かにこれらの街並みには独特の趣がある。「真っ直ぐな道は、趣が無い」なんてのも、心情的に頷ける部分はある(もっとも、それだけを理由に言ってしまうと、直線の道が碁盤目状に走った京都には趣が無い、ってことになるけど)。それを「素晴らしい」と言っているだけだが、街の案内って意味ならばそれでも良いんだろう。
ただ、どうも気になるのが、その「素晴らしい」を表現するのにやたらとニュータウンなどと比較すること。「ニュータウンは趣が無い」程度ならばまだしも、「ニュータウンは画一的だ。住む人も。だから、色々な人がいることを子供が認識できずに、凶悪犯罪を起こすのだ」という事まで言ってしまうのはいかがなものか。この発想をそのまま本にしてしまったのが、『ファスト風土化する日本』という書なのだろう。その他にも、「おっさんの愚痴」のような若者批判が連呼されていたりするのは、閉口した。
ま、街並み紹介の書として考えればそれで良いんだろうけれども、個人的にはむしろ、最近の著者の活動との関連性が興味深い書であった。
(05年10月2日)

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下流社会
著者:三浦展
一億総中流といわれていた時代は終わり、日本の階層は二極化している。そして、「下流」の人間は、収入が少ないだけでなく、コミュニケーションや生活の能力、働く意欲が低い。
うーん…。前に『ファスト風土化する日本』を読んだときにも思ったんだけど、著者って、統計学だとか、社会調査だとかに関するセンスが本当に無いね。鋭いと思える指摘もあるんだけど、著者が独自に取ったという統計のズサンな数値で裏付けた、なんて言われているもんだから却って説得力を失う始末。
確かに、著者の言う、社会階層の二極化。そして、それにより、金持ちは子供の教育にかけられるので上位に居続け、反対もまた然り、ってのはあると思う。でも、別に著者が言い出した事でもないが…。ただ、それだけの事。あとの統計の数字は、信頼に値しない。
統計の不備をついても仕方が無いのだが一応。まず、「下流ほどPC好き」みたいな事がかかれているけれども、WEB調査でやっているんだから、高くなるのは当然。まして、「上流」でも75%がPCが趣味だし、全サンプルで600人で、その内の十数%しか「上流」はいないわけだから、有意差があるのか? という話にもなる。PCは使えても、「下流」にエクセルやパワーポイントを使いこなせる人は少ないはずだ…なんて、どっから出てきたの? そんなデータ。憶測だけで言っちゃダメダメ。PCはまだ大きいほうで、僅か5〜6%程度の差で「下流ほど〜」と言われてもねぇ…。第2章で著者の分けたそれぞれの階層の女性にインタビューしているんだけど、質問にどう答えたのか、とかがまず欲しい。さらに、インタビューの形式・質問内容もバラバラで、いかにも「こんな感じですよ」と印象付けようとしているだけ、と感じられる。また、調査地域の狭さも気になるところ。著者が調査を行ったのは、あくまでも東京を中心とした「首都圏」だけ。「上流は、私立の中学に入って〜」とか言ってるけど、こんなのは地域差が極めて大きい。私の出身地などがそうだけれども、「私立=バカの行く学校」みたいな地域だって沢山あるわけで、断言されても困る。それとも、そんな地方にいる時点で「下流」とでも言うんだろうか? (『ファスト風土』では、地方が消費社会化すると犯罪発生地域になる、とか言ってるしなぁ…) あとがきで「あくまで仮説」とか言ってるわけだけど、それはまず最初に言えって(笑) また、データの取り方とは違うんだけど、階層の区別だとかで東京のこの辺りに住んでいる…みたいなことを言われても、正直、ピンと来ない人も多いんじゃなかろうか? そういう辺りのことも考えていないのだろうか?
話のタネとしてはそれなりに面白いと思う。ただ、偏見、放言もかなり多いので、許容できる、って条件付きだけど。こんなヘンチクリンな統計など使わず、あくまでもコラムみたいなものだったらもうちょっと点数をあげたいところだが…。
(05年11月2日)

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脱ファスト風土宣言 商店街を救え!
編著:三浦展
以前読んだ『ファスト風土化する日本』に対する処方箋…というのが、本書の位置付けだろうか。ただ、私には、『ファスト風土化する日本』を読む中で「地方とは一体どこなのか?(郊外都市から過疎地域まで全て同じに扱われている)」とか、「最大の問題点はどこなのか?(色々と問題点が挙げられているが、優先順位ができるだろう)」といった疑問が残っていた。そして、複数著者による処方箋が記された本書でも、その曖昧さがハッキリしていないため、著者ごとの間で解釈に違いがあり、矛盾が生じたりもしている。
第1章は、「日本は鉄道網の整備という形でインフラ整備が始まった。そして、その鉄道の駅毎に商店街が延びる形になった。しかし、自動車社会化でそれが失われてしまった。復活させるため、中心街への車の乗り入れを制限するなど、自動車社会化からの脱却を図るべき」というもの。しかし、これは、「鉄道が整備されている」という前提がまず必要になる。公共交通機関が発達している大都市部ならばともかく、未発達な地域で可能であろうか?
2章、3章はともに、「街作り」について。しかし、これは「新たに住宅地を造成する」という形のものである。現在進行形の街に対する処方箋とは言い難い。
4章。「子供の遊ぶ環境が失われつつある」という指摘はわかる。だが、それが即ち、心の荒廃を招いて…などという辺りはどうなのか? 同じく自然を無条件で素晴らしいもの、として扱う5章にも疑問が生じる。
6章は、空き店舗を芸術家の卵のアトリエとして利用し、活性化させた東京日本橋の例。だが、著者も認めるように「日本橋だからできた」という側面は見逃せまい。
7章は、著者が講師を勤める山形で、学生と共に行っている「蔵プロジェクト」の紹介。ある意味、ようやく「地方都市」を舞台にしたものといえる。「学園祭のノリにしない」という始動にあたっての考え方は良いのだが、ならば、収支などを示して欲しかった。学生がただ働きで…みたいなことでは、処方箋にはなり得まい。
8章。その土地の風土にあった建築というのが重要。すべて画一的なコンクリート作りの建物はダメ、という意見は正しい。ただ、この章でいうと、建材・建築様式さえ風土に合っていれば構わない、という話になってしまう。著者の建築したルイ・ヴィトン表参道ONEは木造建築だから「脱ファスト風土」だ、というのはどういうこじつけなのやら。三浦氏が批判するジャスコも、木造建築などにすれば良いのか?
と、まぁ、結果的に言えば、「ファスト風土」というものを軸にして各々の著者が自分の理論を宣伝しているだけ、という感じである。しかも、これを読んでいて思うのだが、どの意見を採用する(勿論、全て採用する、でも良いが)にしても、出来あがってくる街はすべて画一的なものになりはしないか? という点である。三浦氏の言う「大規模ショッピングセンター進出による中心街の空洞化」は避けられるかも知れないが、同じく問題視している「画一的な街による、アイデンティティの崩壊」が回避できるのだろうか?
また、多くの著者は「コミュニティ強化」が無条件で良いものと考えているが、ここにも疑問符がつく。そもそも『ファスト風土化する日本』で書かれた犯罪の増加、というものは警察の方針転換による影響が大きいし、逆に強化しすぎる事の弊害も忘れるべきではない。
ということで、前作同様に疑問の残る部分が多い書と感じた。
(06年4月25日)

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下流同盟
著者:三浦展
著者が提唱した「ファスト風土」と「下流社会」。どちらも、根底は同じ。郊外化、大型ショッピングセンターの進出がその大きな原因である。アメリカの現状を踏まえて…というのが、本書の内容。
…ある予想通りの内容だった。良くも悪くも。
まず、1章、2章が三浦氏の著で、3〜7章が、それぞれの専門家の著となっている。そういう意味で、構成としては、『脱ファスト風土宣言』と似ていると言えよう。
それぞれの専門家が書いた大型ショッピングセンター出店によるデメリットなどは、まぁ、それなりの説得力はある。ただし、その根本にある第1章で語られる三浦氏の主張があまりにも滅茶苦茶でクラクラした(笑) 「ファスト風土」における三浦氏の主張というのは、均一的な町並みができることで、土地に対する人々の愛着は消失、匿名化する。さらに、それが人々の心を荒廃させる。それが、「下流社会」を作り、犯罪を増加させる…というもの。
けれどもね…まず、ファスト風土化が犯罪を増やす…ていう主張で20頁に表がある。それを持って「地方の方が犯罪の認知件数の伸び率が大きい」と述べる。確かに「増加率」は多い。けれども…、最も認知件数が増加している香川県で人口1000人辺りの件数は20、43件。2位の佐賀県は14,99件。全国平均の20、07と比較して決して多いとは言い難いし、東京22,89件、大阪府の29,01件なんかと比較すればやはり少なく、著者の言う「地方のほうが危険」とはなっていない。大体、匿名性が認知件数増加の原因…というのは妥当としても、それは悪いことと言えるのだろうか? 認知件数とは、実際に事件の起きた件数ではなくて、警察が「これは事件です」と認めた件数。件数が増えたとして、それを即ち悪いこと、というのは短絡的である。
まして、この1章、2章で言えるのは、著者が思った、だから正しい、という論調がひたすら続くのである。『下流社会』とか、無意味に(誤差率とかを全く考慮せずに)細かい数字ばかり出しているのに、こちらではひたすら思った。だからそうなんだ…ではどうしようもない。また、2章のアメリカ取材というのも、『ファスト風土化する日本』で事件の起きた場所にジャスコがあった、と喜んで終わっていたのと同様、色々な土地を見てこう思った。終わり。だけなのである。これが「取材」なのかも疑問である。
大体、著者は、根底は同じ、などといいながら『下流社会』の中で「地方にとどまる若者は下流だ」とか言っているわけである。また、『脱ファスト社会宣言』で述べるのは、結局、大型ショッピングセンターのない均一な地方の創造でしかないし(ここには、こういう建物を作るべきだ、みたいなことが続いている)、そもそも三浦氏の理想とする高円寺だの吉祥寺だの下北沢だのという土地は、大都市という人口の担保があるからこそ成り立つ場所なのである。それらを全く考慮せずに議論を進められても…と思うのである。
確かに、均一の風景であるとかは問題だろう。だが、三浦氏の議論はかなりいい加減としか思えない。
(07年4月28日)

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下流社会 第2章
著者:三浦展
『下流社会』の発表から2年。そこで提示したものを大規模アンケートにより、さらなる検証を行ったもの…らしい。
実のところ、前著も酷かったが、本書も本当に酷い。著者は、そのあとがき冒頭にて「前著は引用しているサンプル数が少ないといわれたが、分析のプロとして間違ったことは書いていないつもり。ただ、サンプル数は多いに越したことがないので、大規模調査を行った」とある。正直、これを読んで私はずっこけた。統計的な有意数のないものを大々的に取り上げて「こうだ!」などと言う致命的なミスを犯したり、データから全く読めないことをただ思っただけで言ってみたり…などが目立つためである。そして、本書もサンプル数を増やした、と言っても内容は変わらない。
本書で中心的に扱われているのは、男性に対する調査である本書では男性1万サンプルでの調査を元に! と言うのだが、実は細かいとこでは1170しかなかったりする。しかも、関東だけを調査箇所にするにも関わらず、それを全国レベルに適応させたり…などと言う問題もある。さらに、年代、職業別に意識調査などで「これが○%でこっちが△%」などとやるのだが、それぞれがどの程度の割合が示されていない。
その辺りで謎が多いのだが、例えばこんなものがある。164頁、「下流ほど石原慎太郎支持が多い」。グラフによって大きな差があるように見せてはいるが、全体で見ると「上流」「中流」の中の12,9%で「下流」が15,3%と僅か2,4%しか差がない。小泉純一郎支持でも同じようなものである。そして、その辺りのみを根拠として、05年の衆院選・自民党圧勝や07年の参院選惨敗を語ってしまう。しかし、自民党支持層の最大勢力はこの調査で語られない45歳以上であり、そこを無視して語れないはずなのだが…。
また、調査にないことを言うのも相変わらずである。一番、端的に現れるのが第1章「すがりたい男たち」である。ここでは、それぞれの男性の年収と、結婚相手に求める年収で、「同じくらいの年収の相手を求める」と言ったあと、「バブル後、終身雇用が崩れてクビになったり会社がつぶれることが多くなった。だから、一生、家族を養う自信がなくなったので、妻に収入を求めるようになった」などと言い出してしまう。全くその辺りの意識調査はされていないのだが…。他にも、(著者が調べたわけではない)「非正規雇用の人が正社員になりたいと思っているわけではない」と言う結果の後、「それは正社員になると束縛が増えるから」などと言い出す。本当、根拠を教えていただきたいものである。
冒頭、著者の「分析のプロだから」と言う言葉を引いた。これを読むと、よくわかる。「分析のプロの仕事」とは、それっぽい数字を示して思ったことを適当に言いふらすこと、らしい。(本当に、マジメに分析しているプロの皆さん、ごめんなさい)
(07年10月9日)

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ドリームノッカー チョコの奇妙な文化祭
著者:御影
1年生ながら演劇部が文化祭で演じることとなった芝居『トイボックス』の主役に抜擢されたチョコ。練習に余念の無いチョコが、練習中に受けた一本の奇妙な電話。成り行きで、同じ1年生の夢野、先輩ながら新入部員となったアリスと共に電話をかけた犯人探しをするハメになるのだが…。
うーん…一言で言うと説明不足。著者が、ゲームのシナリオライターと言うことなんだけど、これ、ゲームであれば画面演出でフォローすれば良いんだろうけど、小説として考えると、明らかに説明不足。
この作品、序盤はごくごく普通のライトなミステリーって感じなんだけど、途中からすこしずつずれていて、SFというか、ファンタジーっぽい色合いを見せていく、と。設定そのものは面白い。いかにも、な百合描写とかも、好みの問題はあるだろうけど、良い味つけになっていると思う。だけど、やっぱり、肝心な部分が説明不足。
こういう作品って、その「ルール」をハッキリとさせないと拙いはずなのに、そのルールの詳細が最後までよくわからなかった。この作品を形作るそれが発動するのは、どういう時なのか、どうもわからなかった。おかげで、読み終わったあと、どうにも消化不良感ばかりが残る。
もうちょっと、何とかならなかったのかな…。
(06年9月16日)

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僕らはどこにも開かない
著者:御影瑛路

なんか、電撃文庫というよりも、メフィスト賞とかが似合っている気がする。雰囲気としては、奈須きのこ『空の境界』とかに近いと言うか…。

う〜ん…内容紹介が難しいな、コレ。
誰の色にも染まっていない少年・柊耕太を中心にして、耕太の前に「護ってあげる」と現れた香月美紀、殺人願望を抱く谷原雅人、雅人と犬猿の仲である優等生・秋山秀一…といった人々をザッピングしながら、物語が展開。美紀の言う「魔法」とは、属性とは何か…そんなものがストーリーの根幹に関わる。
電撃文庫としては珍しく、一切挿絵が無く、たしかにこの雰囲気なども、規格外という感じはする。そして、ミステリ小説っぽい臭いも漂わせている。その辺りで「メフィスト賞っぽい」っていう風に思ったわけだが。
ただ、それだけに着地点が無難にしすぎた感がある。これが電撃文庫(電撃小説大賞)という賞の作風にあわせたのか、それとも単に枚数制限のために多少強引にまとめあげたのかはわからないが。これだけ走ったのだから、もっと冒険をして欲しかったというのが正直な感想。ま、それをやったら真っ先に蹴られてたのかもしれないけどさ。

ただ、電撃文庫というものにとって、この作品がそのブランドで出たのは今後、こういう作品が出てくるための良い前例になるのかもしれない。そういう点は、注目してみたいところ。
(05年5月20日)

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