とり残されて
著者:宮部みゆき
7編を収録した短編集。
宮部みゆきというと、『クロスファイア』であるとか、『蒲生邸事件』『龍は眠る』など、超能力、超常現象を扱ったような作品はあるのだが、本作もそのような作品を集めている。そして、上記した長編作品と違って、本編はかなり後味の悪い作品が多い。
個人的に一番ビックリしたのは『囁く』。わずか20頁と、本書に収録された中でも最も短い作品だが、これまで読んだ宮部みゆき作品の印象を覆してくれた。そのくらい、ブラックな作品。
銀行の主任が、突如金を持ちだそうとした。主任が言うには、「お金が囁く」での、その声にしたがってしまったのだという。そして、そこに現れた「同じような症状にある」という男性。本当に短い作品なのだけど、こういうブラックな作品も書くのか…と読了後に唖然とした。
他の作品も全体的に後味の悪いものが多い。むしろ、『私の死んだあとに』『いつも二人で』と言った、「綺麗な作品」が浮いている感さえある。どちらかといえば、綺麗にまとめてくれることが多いだけに、その点でも異色かもしれない。
個人的に嫌いではないのだが、結構、好みが別れそう。
(06年6月30日)

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名もなき毒
著者:宮部みゆき
財閥企業の社内報編集部に勤務する杉村三郎は、トラブルメーカーのアルバイト女性の処遇を巡り、私立探偵である北見三郎の元を訪れ、そこである少女と出会う。その少女は、世間を騒がせている無差別連続毒殺事件を祖父を失った古屋美知香だった…。
『誰か Somebody』の杉村が再び登場。前作と比較すれば、劇的な事件も起こっているし、主人公・杉村自身も大きく巻き込まれる。けれども、本作も全体を通して見れば、平凡でお人よしな杉村の日常を中心にした描写が中心に描かれる。
本作、テーマのまとめ方が上手いな、というのがまず感じるところ。連続して起きる毒殺事件。人々の生活を蝕む土壌汚染・シックハウス症候群。人間の心にあり、周囲の人々、そして自分自身を蝕む心の中の毒。「毒」というキーワードで3つのものを出し、それらを上手くまとめるあたりは実に上手い。
特に、「心の中の毒」を巡る物語はなかなか辛いものが在る。どちらかと言えば平凡で、隠しごとができず、決して苦労をしてきたわけでもない杉村。彼自身だって、結婚を巡って実家との人間関係はギクシャクしているし、今多コンツェルンの娘婿という立場も決して気楽とは言えない。けれども、そんな平凡が遥かな高みにある、と思う人がいる。そして、その感情がさらに自分を追い詰めて行く。シックハウスとかは、それでも「他人事」的な部分はあるものの、この感情の部分は実に身近で怖い。杉村をはじめとして、全体的に優しい雰囲気をたたえた作品なだけに、この「毒」の威力は抜群だ。
ただ、それだけ身近で怖い、と思わせておいただけに、最後の締め方には不満が残る。正直、この締め方の部分で一気に興ざめしてしまった。「無理矢理、ハッピーエンドにしなくて良い」って思うのは私だけ?
「心の中の毒」に留まらず、そこまでの人々の描写が丁寧だっただけに、締め方が残念。
(06年9月20日)

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歯は中枢だった
著者:村津和正

現代医学で行われている、歯はものを噛むためだけの道具であるという「歯末梢説」は間違いである。
歯は全身の機能に通じるものである。これを「歯臓器説」と呼ぶことにする。
かみ合わせが悪いと、それによって体のバランスを崩し、重力病になってしまう。また、歯に金属を詰めるとそこから科学物質などが溶け出し体調を崩したり、金属が電磁波を受け取るアンテナの役割を果たし、体へ悪影響を与えたりする。
逆に、噛み合わせが最高に良い状態であれば、歯は重力発生装置としての機能を果たし、電磁波エネルギーを放出することが出来る…。
いや〜…ここまでぶっ飛んでいると、もはやどう対処して良いのやら。とにかく、笑いが止まりません。

と、書くことからお分かりでしょうが、いわゆるトンデモ本です。「このような報告は、本著書のシリーズだけです」って、そりゃ、あなた以外、誰もそんなこと思いつきませんって(笑)。
金属を入れるとアンテナの役割をして電磁波を吸収してしまうって、金が主成分の「むらつゴールド」は大丈夫なんでしょうか? 歯を抜くと体に悪影響があるから、一旦抜いて治療して、再び差すって…それと普通の差し歯、どこが違うのでしょう?
正直、ツッコミどころ満載です。

一応、真面目に言うと、科学的根拠は皆無と言って構わないでしょう。あるのは、お礼の手紙や診察例と言っているものだけで、客観的なものではありません。
また、調べてみますと、かなり治療費なども高額のようですので、その辺りも十分に考察するべきでしょう(そこから先は、本人の責任ですので、どうぞご自由に)
とりあえず、私の判断としては、笑える書として見るならば満点、科学的な書として見るならば0点としておきます。
(05年4月25日)

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元気な脳のつくりかた
著者:森昭雄
考えてみると、うちのブログでは、森昭雄氏の行動に関して、何度と無く批判的な記事を書いたりしているわけなのだが、単独の著書について評価を下す、というのは今回が初めてである。何か、不思議な感覚ではあるのだが。
まず、本書全体を概要を言うと、タイトルなどからもわかるように、子供向けの書籍である。イラストなどが豊富で、文字も大きく平易で、非常に読みやすい。参考になるかどうかわからないが、私自身は20分弱でこの書を全て読み終えることができたほどである。小さな子供であっても、すんなりと読むことができるだろう。それが一番この書の拙いところである。
最初に言うのであれば、本書に書かれたことが100%間違っているわけではない。睡眠を十分に取ること、運動することの大切さ。栄養バランスの良い食事をとること。これらを否定する事はできないだろう。
ただ、この書で書かれた事は「正しいのは自明のこと」として、その理由であるとか、根拠であるとかが一切無いのである。「ゲームを長くやっていると前頭前野の働きが悪くなります。これをゲーム脳と言います。ゲーム脳になると、キレやすく、物忘れが激しくなるのです」という感じでストーリーが進展していく。『ゲーム脳の恐怖』や『ITに殺される子どもたち』にあったような理由付けやグラフなどの資料は一切無い。
これまでにも散々言われていたことであるが、この「ゲーム脳」というものは、発表から4年以上経過した現在であっても学術論文すら書かれたことの無い説であり、しかも、斎藤環氏の批判など、多くの有識者から専門知識についての初歩的な間違いを指摘されている説でもある。そのような説が「正しいの自明のこと」として、理由も何も無しに子供に植え付けてしまうことは、非常に問題である。『ゲーム脳の恐怖』などのように、ちゃんと理由が説明されていたり、グラフが描かれていれば、注意深く読むことでその矛盾に気付いたりも出来るが、本書ではそれすらできない。
さらに、「コラム」と題して、「殺人ゲームで現実と空想の区別がつかなくなって、事件を起こした子供がいる」などと言う極論を上げる部分が何箇所かある。ここも問題である。極めて少ない事例の中のごく一部の供述を持って「ゲームをやるとこうなる」と言うやり方は感心できないだけでなく、子供達に根拠の無い偏見・差別意識を植え付ける危険性がある。
ハッキリ言おう。この書を子供に読ませてはならない。科学的に全く証明されていないものを「正しいもの」「自明のこと」として子供にウソを教えるだけにとどまらず、根拠の無い偏見を植え付け兼ねない。一番やってはならないことだ。本書が出た時点である程度は予想できた内容ではあったのだが、ここまで予想通りの書とは思わなかった。
最後に1つだけ。本書は、イラスト・図による説明が非常に多い。『ITに殺される子どもたち』の中には、このような一節がある。「マンガも読書と言うかもしれないが、絵が多く、視覚的な刺激が主になる。そのため、全く脳が活性化しない」と。つまり、「マンガでもゲーム脳」と言いたいわけである。と、この森氏の理論に添った場合、イラストたっぷりの本書でもゲーム脳になる危険性が高いのである。これぞまさしく自己矛盾というのだろう。
(06年8月5日)

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「脳力」低下社会
著者:森昭雄

ITの高度に発達した社会。だが、そのことが、脳、特に子供の脳にどのような影響を与えるかはよくわかっていない。著者の研究を中心にIT社会に警告を与える書…らしい。
二度あることは三度ある、というが、これで4冊目…。論文は書いていないのに…。
基本的な内容としては、これまでの『ゲーム脳の恐怖』『ITに殺される子どもたち』の焼き直しと言って良い。ただ、本書は、これまでの著書と比べると、極端な例は少なく、(五十歩百歩ではあるが)被験者の詳細も出すようになっている。また、色々と批判の対象となっていた「アマラとカマラ」であるとかの話も削除されている。その替わりに、ITと関係のない音楽を聴いたときの脳活動についてとか(本論と殆ど関係ないうえに専門用や細かい数値などばかりで、わかりづらい。ニセ科学と言われることに対して、専門家であるとアピールするのが目的?)、ブローカ野などの発見に至る過程の話、そして最後に、自身も関わっている「親学」の推奨などを入れている点が特徴になるかと思う。
そういう意味で、これまでの書と比較すると香ばしさは抑え目。とは言え、問題はそのまま残っている。
まず基本的なところとして、相変わらず著者のいう前頭前野の機能低下というのを測定する装置は、自身の作った機械による筋電図(これで測れるのが脳波ですらない、というのは、メディカルシステム研究所の岡田保紀氏らに指摘されている)であり、そこで測ったα波とβ波の割合で調べる、という誰も認めていない手法を取っている。また、『ゲーム脳の恐怖』では、「認知症と同じで、物忘れが酷くなる」というのが中心だったが、今回は物忘れという部分を低め、替わりに「問題行動の原因」と言う部分を強調する。論旨そのものも変化している。
先ほど被験者の詳細を出し、平均なども示す、と書いた。しかし、それも極めて部分的なものであり、しかも、それにより意味のない比較をしてIT批判をしている部分も見受けられる。例えば、105頁からは某私立中学のPC部員12名と某私立大学文系の学生のワーキングメモリ課題を比較して、中学生の成績が劣ることを示すが、これはそもそも比較になるのだろうか? 被験者の状況が全く違う(中学生でいうなら、同じ中学のPC部員以外と比較、とかをするべきでは?) こういうところで、やはりどうしようもないのである。さらに、164頁からの「脳に良いもの」では、根拠も示さずただ「こうなると思う」と、茶道、生け花、俳句など著者の好きなもの、馴染み深いものを連呼する。
また、香ばしさが薄いとは言え、やはり現在の子供は病んでいる、その親の教育力が落ちている、という前提で語っていることは同じで、最後には「親学」を持ち出してくる。しかし、現在の子供は、の理由は、新聞記事やら『子どもが壊れる家』(草薙厚子著)の記述などばかりで、唯一、示される統計的なデータも05年の文部科学省による「校内暴力件数が過去最多」というものだけである(この校内暴力件数統計は、近年に基準そのものが変わり、過去のものがないし、また、現在でも都道府県間で数十倍もの数値の差がある精度の低いものである。この辺りは『いじめの構造』(森口朗著)に詳しい) さらに、家庭の教育力低下などについては根拠すらない(この辺りは『日本人のしつけは衰退したか』(広田照幸著)などに詳しい) 無論、ニートだとかに関する言説も全く調べずに書いている。その辺りは相変わらずである。

このように批判的な言説を書くと、「ゲーム好きだから擁護しているだけ」などと言われるかも知れない。だが、そもそもこの説は、学術論文すら書かれていないものである。このようなものを強く支持する、というのはむしろ、ゲームが嫌い、ゲームの脳に与える影響を危惧する人にこそ、マイナスに働くのである。
というのは、このようなデタラメの説の広まりというのは、脳科学、神経学などに対する信頼を破壊する。その研究そのものが進まなくなる。また、まっとうな研究により本当に悪影響があったと判明しても、その広まりを阻害するのである。丁度、狼少年の童話のように。
ゲームの悪影響を危惧する人こそ、慎重に扱って欲しいと思う。
(07年9月23日)

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戦後教育で失われたもの
著者:森口朗
「学校や教育を取り巻く言論におけるリアリズムの欠如」が、著者が本書を書き終えた際に感じたことらしいが、読み終えた私に言わせると著者の言ってることにも全くリアリズムが感じられなかった。何せ、基本的には著者の頭の中で考えたことを垂れ流すだけで、根拠だとかが全く示されないのだから。
まず、私自身、本書で著者が言うように偏差値教育そのものを否定するつもりは無い。著者の言うように、「競争」を推奨するのも良いと思っている。そういう意味では、近い考え方の部分もある。けれども、全体的な根拠の薄さであるとか、偏見に基づくもの言いだとかばかりで、全く評価できる代物とは思えなかった。
例えば、競争の否定はいかん、っていうことで「手をつないでゴールといものがある。あれは、都市伝説である。しかし、現実には運動会前にタイムを計測して良い勝負になるようにしている。手を繋いでゴール、よりも酷い悪平等。」みたいな部分があるのだが、そうかな? と。著者は「足が速ければ相手も強くなる。遅ければ、相手も遅くなる。それでも1位は同じ栄光は悪平等」という。一見、そういう風にも思えるんだけど、子供の世界ってそこまでバカか? 一応、自分もそういう感じだったけど、普段、体育の授業などで誰が早くて誰が遅いなんてわかっているわけで、少なくとも生徒間で1位になっても「所詮、あいつは、遅い組の1位」としか見て貰えない。何かこういう机上の空論的な言説が目立つ。
そもそも、この書では「戦後の教育、戦後民主主義の中で変わってしまったのが原因だ」と批判をして、直接的には書いていないものの、言外に「戦前はもっと良かった」という空気が流れる。しかし、実際に戦前の教育で問題がなかったのかどうかの検証は殆どない。それも何だかなぁ…と感じざるを得ない部分のひとつ。
また、学力低下が「当然の前提」と見ているけれども、本当にそうなのか? 外国に比べ、教師に反抗する事を是認する生徒が多いのは問題だ、というのは本当に問題? 「犯罪性を有さない」イジメならば認めても良い…って、「犯罪性のないイジメ」って何?(例えば、殴るなどがあれば暴行罪、怪我をさせれば傷害罪、私物を隠せば窃盗罪、壊せば器物破損罪、金を巻き上げれば恐喝罪や強盗罪、「誰にも言うな!」と迫れば脅迫罪になるよね? どういうのが、「犯罪性の無い」イジメなんだろう?) など、細かくツッコミを入れれば数限りない。
(06年9月7日)

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いじめの構造
著者:森口朗
昨年秋以来の「いじめ自殺」以来の一種の「いじめ報道ブーム」により、多くの「有識者」による提言、さらには、政府・教育再生会議などによる提言が出された。しかし、その多くは、実態を把握していないものが多い。いじめのメカニズムを解明し、解決策を探る。…というところだろうか。
実のところ、森口氏の著書に関しては『戦後教育で失われたもの』を読み、そこに「犯罪性のないイジメは認めるべき」とあったりして「はぁ…」と思った経験がある。本書の中にも「学校のいじめはなくてはならない」とあり、その辺りは納得しかねるし、また、「犯罪を「いじめ」にしているのは、オールド左派とオールド右派の懐古派の共同正犯」と言いつつ、日教組(左派)の(それも古い)エピソードだけを入れて批判してみたりする辺りは、嫌悪感を抱いた(そもそも、本論にあまり関係のないエピソードで入れる必要性も感じない)。他にも、細かい部分では気になる箇所がある。ただ、それを差し引いても、十分に価値のある書という風に思う。
本書ではまず、タイトルでもあるいじめの「構造」について、「スクールカースト」という言葉、さらに藤田英典氏、内藤朝雄氏らの理論を応用することによって示し、さらに、世間にはびこる「いじめ言説」やいじめ統計の問題点の指摘・批判。そして、その上での対策を示す…という構成になっている。
こういった報道があるたびにでる「最近のいじめは…」という言説。しかし、「いじめ」と一言で言っても、様々な形態があるし、それらを全て同じものとして扱うのは問題がある。それらをある程度類型化し、そこに「スクールカースト」という概念を加えることで実にわかりやすく把握することが出来る。そして「最近の…」の問題点も見えてくる。いじめの構造について考えるのは最適の書ではないかと思う。
後半のいじめ対策について評価したいのは、(なくてはならないもの、というのは納得しかねるものの)「いじめに根本療法はない。対処療法で当たるしかない」というのをしっかりと示し、「対処療法でなくしたものを、根絶した」とすることの危険性を示したことだろうか。私自身、「集団である限りいじめは起こり得るもの」という考えを持っており、その感覚のなさが対応の遅さ、鈍さに繋がると考えているだけに拍手したい思いである。また、犯罪性の有無で、あるものは司法に任せよ、という部分にも同感である。
先に述べたように、納得しかねる部分はある。しかし、それを差し引いても、十分に評価できる書だと思う。
(07年9月8日)

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押し紙 新聞配達がつきとめた業界の闇
著者:森下琉
静岡県三島市にある新聞合売店。過酷な労働状況にあった配達員達が立ち上がり、裁判を起こす。その過程で様々なことが見えてきた…。
毎日のように配達される新聞。その販売・配達を担う労働者達の過酷な状況を、裁判過程を通して表した書。就業規則もなく、様々な不正を働いている販売店、そしてその背後にある販売店と新聞社の関係。そういうものがこの書では著されている。特に、この書の特徴としては、裁判を起こした労働者たちからの視点が中心となり、彼らの労働条件の劣悪さなどがよくわかる形となっている。行動を起こして行く過程の紆余曲折も細かく記されていて、物語を読むような感覚でサクサクと読むことができるのも長所だろう。
ただ、この書の場合、労働者たちの視点、状況はよく分かるのだが、タイトルにもある「押し紙」というものの実態に関しては、「背景にある」といった程度の記述で、終章にちょっと載っている程度である。この辺りがもう少し突っ込んで欲しかった。この辺りは、『新聞社の欺瞞商法』(黒藪哲哉、サワダオサム著)などを参照していただくと良いかもしれない。
(05年8月14日)

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スポーツニュースは怖い 刷り込まれる<日本人>
著者:森田浩之

私たちが日々、目にするスポーツニュース。だが、そのスポーツニュースこそ、最も我々に強いメッセージを与えている。それも知らず知らずのうちに…。
日々、目にするスポーツニュース。その中で伝えられる情報、言い回しほど、物事の考え方がストレートに現れているものはない。例えば、女性スポーツ選手を巡る報道では、やたらとその選手の「女性性」が強調される。しかし、男性に対して同じことを言われることは無い。スポーツ選手のコメントは、何故、「優等生なのか?」、さらには国際大会で語られるステレオタイプ。例えば、アフリカ人ならば、「強靭な身体的能力」と語られるが、他の地域だってそんな選手はいくらでもいるのに…。などなど…。
スポーツが「ナショナリズム」に大きく作用する、なんていうのはよく言われることなんだけど、身近な報道を検証していく様は読んでいでいて「確かに」と思わされる部分が多かった(と、同時に、著者の新聞などに対するツッコミも面白かった)。
著者が最後に書いている部分と被るのだけれども、例えば、政治記事であればある程度、読者も身構えて読むことになる。例えば、朝日新聞だから…、産経新聞だから…みたいな感じで。けれども、スポーツに関して言えば、「娯楽」としてあまり身構えて読むことはない。そういう意味でも、スポーツニュースと言うもののメッセージ性は強い。
欲を言うなら、もう少しデータ、根拠などが示されれば申し分なかったのだが、なかなか面白い書だった。
(07年12月27日)

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子どもが出会う犯罪と暴力 防犯対策の幻想
著者:森田ゆり
「子どもを守ろう!」。このスローガンを元に広がる防犯対策。その防犯対策は、主に路上に現れる「不審者」に視点が向けられる。しかし、現実に子どもが出会う犯罪や暴力は、家族や隣人など、子ども達が良く知る人物によるものが圧倒的に多い。現在行われる「防犯」の問題点、そして、本当に子どもを守る方法を考察する。
と言ったのが内容か。
まず、この書を読んでいて、著者は人を引きつけるのが上手いな、ということを思った。小難しい言葉を出さず、身近なエピソードだとかを上手く盛り込んでいるので、本当に読みやすい。「息子の小学校の連絡網で1日に不審者情報が3通もきた。しかも、3番目などは、酔っ払いが子どもに缶を出して「これをあげる」と言ったこと。思わず「いい加減にしろ!」と思った」なんて、様子が目に浮かぶもん。こういうので、実に上手く本題に繋げてくれるな、と思うのだ。あんまり、内容に関係ないところで、申し訳ない。
さて、内容であるが、基本的には、前半で、近年、メディアで言われている「子供を巡る犯罪の凶悪化」というムードへの懐疑的な見方。「不安」が広がることの危険性。そして、それに基づく「防犯対策」の脆弱性が指摘される。後半では、著者の活動などを中心に、真に子供を守る為の方策を模索する、という構成になる。
前半の子供を巡る犯罪の凶悪化ムードのウソなどは、比較的、多くの書でも指摘されることではあるが、報道などを通して凶悪化を思っている人は多いのではないかと思う。そして、それに基づいた「外部の不審者」探しがいかに無意味なことか、また、ケースファイルを用いて語られる、「不審者」冤罪の実態などはなかなか考えさせられる(そう言えば、先日も、迷子に食事を与えた女性が、誘拐容疑で逮捕されたってのがあったっけ)。また、近年、流行している「防犯マップ」作りも、それ自体はともかく、それによって被害にあってに「行ったのが悪い」などと責められる危険性があるなどという指摘はなるほどと思わされる。
著者の提案する対策は非常にシンプルである。それは、「○○してはいけません!」と子供の「選択肢を狭める」のではなく、正しい知識、対策を与えることにより「選択肢を広める」というもの。単純ではあるものの、いや、単純だからこそ良いというように思わせてくれる。そういう意味でも賛同できる内容だ。
最後に気になった点をいくつか。まず、監視社会化の危険性を訴える際、致し方の無い部分があるとは言え、著者の訴え方も「不安」を利用した形であること。「不安」の組織化を批判しながら、不安に訴える方法が良いのか? という部分。次に子供の性犯罪やDVなどの実態について、性犯罪を行った教師や警官の例を次々と出したり、DVを行う者は、幼少時代にDVを受けていたとい例を連呼する部分。「全てがそうではなく、少数である」とは断っているものの、それらに対する偏見を植え付ける結果になりはしないか? これらは、些細なことではあるものの、ちょっと気になった。
とは言え、色々と考えさせられる良書だろう。
(06年9月18日)

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すべてがFになる
著者:森博嗣

森博嗣作品を読んだのは初なんだけれども、なるほど、西尾維新とかに影響を与えたっていうのはわかる気がする。やりとりとか、ちょっとしたところに、そんな雰囲気はある。

絶海の孤島の研究所。そこの地下で、長らく隔離されて暮らしている天才プログラマ、真額田四季。彼女をN大学助教授の犀川と、学生の萌絵が訪れる。そして、不可解な密室殺人が…。
う〜ん…「なるほど!」と思ったのは確か。ただ、それに大してどう思うか…という点でどうしても評価は分かれるだろうな。タイトルでもあり、キーワードでもある「すべてがFになる」に関しては、そういうことか、と素直に思えたけれども。
この作品、トリックもさることながら、登場人物だとかもかなりアクが強い。シリーズものとして、既に続いているわけだけれども、このアクの強さがポイントなんだろうな…。

ま、とりあえず、このシリーズ、もう1〜2作読んでからかな。
(05年6月6日)

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冷たい密室と博士たち
著者:森博嗣
同僚の助教授・喜多の誘いで低温実験室を訪れた犀川と萌絵。だが、実験後のコンパの後、研究生2人が何者かに殺害された形で発見される。2つの密室で2つの死体。犀川たちは調査を開始する…。
森博嗣の経歴上のデビュー作は『すべてがFになる』だが、執筆順という意味ではこちらが最初の作品になるらしい。
『すべてがFになる』は、犀川&萌絵というキャラクターを前面にだしたのと、かなり大胆なトリックが用いられたことで、「奇作」とも言える部分があったのだが、この作品のトリックは極めてオーソドックスな本格推理モノ。キャラクターを前面に押し出している点では、相変らず好き嫌いがあるかも知れないが、全体的には、従来の「本格モノ」ファンからはこちらの方がすんなりと受け入れられるかもしれない。
(05年7月11日)

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笑わない数学者
著者:森博嗣

天才数学者と言われた天王寺博士の住む三ツ星館で行われるクリスマス・パーティーに赴いた犀川と萌絵。そこでは、庭に立つオリオン像が忽然と消える、というオカルトのような話があった。実際、犀川たちの前でそれは12年ぶりに姿を消した。だが、翌朝、再び現れたオリオン像の前にはパーティーに参加した女性の死体が…。
ということで、森博嗣のS&Mシリーズの第3段に当たる作品(なんか、S&Mシリーズって言い方凄いよな(笑))。今回も、前2作同様に密室というところがポイントになる。
う〜ん…、正直なところ、トリックはすぐにわかった。随所にヒントが散りばめられているし、多分、ちょっと勘が良ければ分かるんじゃないかな? というような感じがした。
なんか、前作でも多少感じたのだけれど、これを読んでいて、作品の方向性自体が「本格モノ」というよりかは、犀川、萌絵という2人の人物を中心としたキャラクターモノになってきているのかな? という風に感じざるを得ない。まぁ、色々と評価は分かれる作品みたいなんだけれども、ここまでの3作品を読んできて、森博嗣作品って微妙に肌に合わないような感じがする…。まぁ、ここ1月半くらいで、まとめて読んだせいもあるのかも知れないけれども。
どっちにしても少し冷却期間を置いて、シリーズの次回作『詩的私的ジャック』は速くても9月以降にすることにしよう…。

なんか、まともな書評になってなくて申し訳無い。
(05年7月22日)

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モーツァルトは子守唄を歌わない
著者:森雅裕
第31回江戸川乱歩賞受賞作。同時受賞に『放課後』(東野圭吾著)。
ハイドンの葬儀に赴くベートーヴェンは、その途中、1枚の楽譜を手に入れる。それは、モーツァルトが作った、として売り出された子守唄の楽譜で、実際には、モーツァルトの友人であるフリースが作曲したもの。そして、その楽譜に残された違和感を元に、ベートーヴェンは調査を始めるが…。
(ちょっと、冒頭の説明が自分で書いていてしっくり来ない…。あとで、書きなおすかも)
本作の主役は、ベートーヴェンである。出てくる登場人物もモーツァルト、シューベルトなどなど、音楽の授業で必ず出てくる音楽家ばかり。そんな人々が、いかにも聖人…というのではなく、非常に偏屈な人々として描かれているのが面白い。特にベートーヴェンと、弟子のツェルニーとのやりとりは漫才だ。また、当時の世界情勢、音楽家の立場を巡る辺りも面白い。宮廷に使え、そこで活躍するために必要なもの。勿論、音楽的な才能もそうだが、権力を渡り歩くための政治力だとかが必要とされる。ベートーヴェンとツェルニーらのやりとりで軽く仕上げながらも、そのような当時の情勢が見えてきて、そちらでも興味深く読むことができた。
ただ、これは私の事情なのだが、私自身はこの作品の面白さを十分に味わえていなかった、とも同時に感じた。というのは、私は芸術方面にはとことん疎いからだ。書道、美術もダメなのだが、音楽も劣らずに酷い。楽譜を見てもサッパリ読めないのだ(威張るなよ)。そのため、作品を引っ張る「子守唄の楽譜に隠された暗号」というものが、どうも頭に入ってこなかったのだ。「音の使い方がおかしい」とか、「半音高い部分がどーのこーの」みたいに言われても「???」という感じなのだ。楽譜を見ても、「何がおかしいの?」と言う感じで。
当時の情勢だとかを楽しむことは十分に出来たのだが、本作の魅力を完全に把握できなかった自分の不甲斐なさに苦笑する思いである。
(06年3月18日)

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高層の死角
著者:森村誠一
超高層ホテルのワンマン社長・久住が、住居としていた最上階のスイートで殺害された。4つのキーが存在しているものの状況は完全に密室状態。唯一、犯行が可能と思われるのは久住の秘書・有坂冬子だったが、刑事・平賀と共にありアリバイがあった。しかし、普段と違った態度の冬子に、平賀は彼女を疑いはじめ…。
第15回江戸川乱歩賞受賞作。
森村誠一氏、と言えば『人間の証明』であるとかがあまりにも有名な作家であるが、本作がそのデビュー作にあたる。そして、本作は高層マンションでの密室殺人、そして空白の時間を用いたアリバイ崩し、とガチガチの本格ミステリ作品。正直、読んでいて西村京太郎氏辺りの作品かと思った(笑)
作品の流れとしては実にわかりやすい。冒頭に、内容の説明を書いたが、前半は高層ホテルで起こった密室殺人のトリックが、そして、そこが崩れてからの新展開ではある人物に纏わるアリバイ崩しがメインになる。ホテル、旅客業という業界の物語、刑事・平賀の執念…みたいなものもあるにはあるが、あくまでもそれがメインに押し出された作品というわけではないだろう。
で、肝心の「本格ミステリ」としての出来なのだが…うーん…。実のところ、この作品にある意外性というものは、1969年という時代あってこそ、という感じがする。当時と違い、この手のトリック作品が小説に限らずテレビメディアなどでも多数表れ、また多くの人々が気軽に旅を行うようになった現在、このトリックにどこまで意外性を見出せるか…というとちょっと疑問が浮かんでしまう。
そういう意味でも、時代を感じてしまった作品だ。
(06年12月15日)

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